珍しいものを見てしまった。
 ついでに、見なくていいものまで見てしまった。




The Nightmare



 あまりの埃っぽさに思わず咳き込む。そのことによってもまた埃が舞い上がり、悪循環極まりない。窓はどこかと探すものの、ここは地下だったと思い出して溜息を吐き出す。再び埃が舞う。
「あの人……知っててやらせたな」
 先ほどの勝ち誇ったような、ひどくにやりとした笑顔を思い出して、言いようのない敗北感に少しイラッとした。最近丸め込まれっぱなしだ……そろそろここら辺で何かお返しをしておかないといいように遊ばれるだけなのは目に見えている! と、気合を入れる意味で頬を両手でパンと叩いたら、また埃が舞って鼻がむず痒くなる。この学習能力のなさをまずどうにかしなければならないな、と苦笑した。
(でも……)
 確かに今回は私が悪かったかもしれない、と部屋の隅においてある脚立をずりずりと引きずり出しながら思う。しかし、言い訳をさせてもらえるならばあれは完全なる不可抗力だったのだ。



***



 事の発端は、仕事中に携帯にかかってきた一本の電話だった。

 いきなり流れ出した、御剣検事の豪華絢爛な執務室には似合わない気の抜けるような和風調のメロディ。リュウや真宵ちゃんに影響されて私の携帯の着信メロディもまた、例の特撮ヒーローの主題歌だった。
 この着メロを聞くたび、検事は何か言いたげな顔をする。私も負けじとその顔を見るたび「すみませんね、子供向けで」と言っておく。
「いや、文句があるわけではないのだが……意外だと思っただけだ」
「私がトノサマンのテーマを着メロにすることがですか? 私、トノサマン割と嫌いじゃないですから」
「うむ……そうか」
 ……などという会話を交わしたことがある。しかしとっくに気付いているのだ、自分の上司が実はトノサマンが大好きなことくらい。この携帯が震えるたび、妙に嬉しそうな表情を無理やり隠そうとしているのがバレバレなのだ。意地っ張りにも程がある。第一、執務室にトノサマンのフィギュアを堂々と飾っている時点で隠す意味などあるのだろうか、といつも疑問に思う。ただ、それを口に出すときっと私の生活費に支障が出てくるので、気付かぬ振りをして何も言わないことにしている。

 ディスプレイに浮かぶ表示は「成歩堂龍一」とはっきりと主張していた。私が仕事中だと分かっていながらこいつは電話をかけてきているのだろうか、と一瞬叩き切ってやろうかとも思ったのだが、仕事絡みの用件だったらそれはそれで申し訳ない。観念して、通話開始ボタンを親指で押した。
「もしもし。こちらは自由業の弁護士サマとは違って歴とした公務員でございます。つまりそちらと違って勤務時間というものが決まっております。ただいまはその勤務時間の真っ最中でして、私用電話ならばこの場ですぐに通話を終了させていただきたいと思います。もしも仕事の用事ならば、わたくしよりもわたくしの上司にお話をしていただいた方がよろしいのではないかと」
『わー待った待った!』
 一気にまくし立てると焦った声が受話器の向こうから響いてきた。
「なんなのよ、一体。本当に仕事中なんだからデスクの方の電話にかけてよね。もしくは御剣検事に直接かけるとか」
『あー……それは、ごめん。素直に謝るよ』
「……じゃあ切るよ?」
『い、異議あり! 僕の用件をちっとも聞いてないじゃないか。ちょっとくらい耳貸せって』
 なるほどくん、電話片手に人差し指を空中に向かって突き出すの虚しいからやめようよ、という真宵ちゃんの声が遠くから聞こえる。恐らくリュウの隣にいるのだろう。リュウはこほんと一つ咳払いをして続けた。
『とにかく、さ。今回はちょっとなごみに頼みがあるんだ。御剣だとダメだの一点張りだろうから』
「……はあ?」
 まったくもって意味が分からず、思わず間の抜けた声を出してしまう。
「どういうことなの? ちゃんと説明してよ」
『うん、まあ、話せば長くなるんだけど……』

 上司に一声かけてから執務室を出て廊下に設置されている椅子に腰掛けた。私が落ち着いたのを確認してリュウが話し出した内容は、彼が言っていたほど大して長いものでもなくすぐに要領を得ることができた。そして……
「……あのさ、私がそんなこと許可するとでも思ってるの?」
『言うと思ったよ……』
 簡単に首を縦に振れるものではなかった。
「見くびられたものね。御剣検事が許さなさそうだから私に話したんでしょうけど、さすがに馬鹿にしすぎじゃない?」
『うん、ごめんってば』
 これっぽっちも悪いと思ってないでしょ、と突っ込むと電話の向こうでリュウがにやりとしたのが見えた……ような気がした。見えてはいないけれど、あまりに自信たっぷりの顔が浮かんでしまい、腹が立った。
『ふっふっふ……そういうだろうと思ってね、君が頷かずにはいられない重要な証拠品を用意してあるんだ』
「へえ、言ってごらんなさいよ」
 どうせいつものハッタリだろうと、軽く鼻で笑ってやる。そう言っていられるのも今のうちさ、と言うと一瞬電話が遠くなり、真宵ちゃんバトンタッチ! と声が聞こえた。それに続いて元気な声が響いてきた。
『なごみさんこんにちは! 真宵です』
「こんにちは。……リュウに変なこと吹き込まれてない?」
『大丈夫です。あ、でもでも、あたしが所長なのになるほどくんってば扱き使うんですよ!』
「それは酷い男だね。あとでたっぷり労働費請求しておけばいいと思うよ」
『はい、そうします!』
 おいそっちこそ変なこと吹き込むなよ! というリュウの声が聞こえたような気がしたが無視してやった。

『そうそう、本題なんですけどね』
 妙にわくわくして嬉しそうな声だな、と思うと、何故か真宵ちゃんは誰にも聞かれたくない秘密の話を打ち明けるかのように声を潜めて話し出した。
『なごみさん、ケーキはお好きですよね』
「え、うん。まあね」
『じゃあじゃあ……ラ・メール洋菓子店のケーキももちろん、好きですよね?』
「……ど、どうして知ってるの?」
 そりゃあまあ、うちの事務所の弁護士はなごみさんの友人ですからね、と返事が返ってきた。実際その通りだ。その洋菓子店は私が以前たまたま仕事で行かなければならなかった場所の近くの商店街に位置しており、外から覗くとそこに見えたショーケースの中のケーキの数々があまりにも美味しそうで、つい買ってしまったことがきっかけだった。
 その時店番をしていたのは小学生か中学生くらいの男の子(後で聞いたところ店のパティシエの息子さんだそうだ)で、彼は店の看板はミルフィーユだと言っていた。その言葉に従ってミルフィーユと、私の好きなチョコレートケーキを自分と御剣検事の分購入した。非常にできた男の子で、私が帰るときにはまた来てくださいね、なんて笑顔を向けられてしまった。その雰囲気に惹かれて、遠方にもかかわらず結局その後何回も足を運んでいる次第だ。もちろん、味は絶品としか言いようがないほどで、上司もお気に入りなのである。
 私のその熱の入れっぷりを見てリュウも足を運ぶようになり、度々真宵ちゃんや春美ちゃんに買っていってあげているようだった。あまり食べ物に執着しない彼にしては珍しく、美味しい! と言っていたのが思い出される。

 ……そういえば、初めてその店のケーキを買っていったとき、御剣検事もやけに嬉しそうにしていた。
 そのときはまだ私は彼と仕事を始めてそこまで日が経っていなかった。時折見せる、眉間にしわを寄せた苦しそうな表情も気になっていたのだが、口に出すことはできずに見ているだけだったな、と思い出す。
 初めて私の前で彼にとっての普段の表情からふと崩した、一般的な感覚でいうところの「普通」、彼を見てきた私にしてみれば「喜んだ」表情を見せたのだった。

『──さん、なごみさん?』
 はっと我に返ると、心なしか心配そうな声色で真宵ちゃんが呼びかけていた。
「ごめん、ちょっとぼーっとしちゃった。それで、なんだっけ」
『あのね、今度うちの事務所の前のバンドーホテルで「日本ケーキ博覧会」っていうのが開催されることになったんです』
「なんというネーミングセンス……」
『と、思いますよね? でも中身はすっごくしっかりしてるんですよ。日本中の有名な菓子店のケーキを集めたバイキング形式のイベントなんです。食べ終わったお客さんたちにアンケートを募って、日本一のケーキを決めよう! っていう趣旨らしいんですけど』
「うん……それで?」
『で、そこのホテルの支配人さん、前になるほどくんが担当した事件の関係者でね。私たちのこと「ケーキ博覧会」に招待してくれたんですよ!』
 しかもタダで! と至極嬉しそうに付け加える。恐らく日本一を競うくらいなのだから、相当質のよいケーキが集まるのだろう。それを無料で食べられるのであれば嬉しくないわけがないのだと思う。……別に羨ましいとか思ってはいない、決して。
『そこで、です』
 真宵ちゃんはそこでいったん言葉を切って、まるでもったいぶるかのように十分な間を空けた。

『なごみさんの分も招待券、もらったんですよ』
「え」
『さらにその博覧会、ラ・メール洋菓子店も出品してる、と言ったらどうします?』
「──!」

 私の意地などこの無情な現実の前に脆くも崩れ去ってしまった。これが、奴の言う「重要な証拠品」だったのだ。私は首を縦に振らざるを得なかったことを告白しておく。


「御剣検事、成歩堂弁護士が会いたいそうなので検事局に入れるようにしておいてほしい、とのことです」

 衝撃の電話を切った後、再び執務室に戻った私は御剣検事を前にしてあれだけ嫌がっていたことをしなければならなくなっていた。想像ではなく、実際に勝ち誇った声で博覧会に行きたければ僕の要求を呑むことだよ、とリュウに言われてしまったからだ。敗北感に潰されそうになったが、検事には申し訳ないと思いつつ、良心とケーキを天秤にかけたらケーキのほうに傾いてしまった。
「成歩堂が? 一体何の用だ?」
「……さあ、詳しくは教えてくれませんでした」
 私の言葉を聞いた検事は書類に目を落としながら尋ねた。この動揺が悟られてはしまわないかと、背中に冷や汗が流れていくのを感じた。恐らく直接見つめられれば私の小賢しい嘘などすぐに見抜かれてしまう。正直、仕事に集中しているのがありがたかった。
「まあいいだろう。分かった、私から連絡しておこう」
「了解しました。じゃあ、私はお茶でも用意してきます。あれでも一応お客様ですからね」
「ああ、そうだな」
 その言葉を聞き、気付かれないくらいの早足で再び執務室を出て給湯室に向かう。
 執務室のドアが閉まる音を聞いて、溜息をつく。この後待ち受ける事態が容易に想像できてしまい、自分が招いたこととはいえ少し辟易してしまった。


「あ、なごみさん! お邪魔してまーす」
 給湯室から淹れたての紅茶、しかも手間はかかるが季節的にアイスにした紅茶を乗せたトレイを抱えて戻ると、成歩堂法律事務所の面々は既に執務室のソファでくつろいでいた。
「いらっしゃい。はい、紅茶だよ。ゆっくりしてってね」
「ありがとうございます!」
 真宵ちゃんは、本格的なアイスティーがすぐ出てくるなんてやっぱりミツルギ検事の仕事場は違うなあ、なんて感心している。その隣で私に視線を投げてくる人物が一人。それを無視して無言で彼の前に紅茶を置く。
「僕にも歓迎の言葉が欲しいなあ」
「……」
「そんな怖い目で睨むなよ。仕事中に電話したのは悪いと思ってるって」
「ふん、どうだか」
 ふいっとそっぽを向くとリュウはやれやれ、と言って苦笑した。それはこっちの台詞だ。

「ところで成歩堂、今日は何の用だ?」
 仕事が一段落したのか、それまで黙って私たちのやり取りを聞いていた御剣検事が口を開いた。私とリュウは一瞬、固まる。
「?」
「い、いや……御剣、元気かなあと思ってさ」
「元気も何も、法廷で会っているではないか」
「はは、まあ、そうだよなあ」
「それに具合を確かめたいのなら、直接私の職場に来ることはないだろう。今が西暦何年か知っているか? 君は現代には文明の利器の一つである電話というものがあるのを知らないのだろうか」
「はは、あはは……」
 完全に検事の言っていることが正しいわけで、リュウに反論することなどできない。もちろん、彼の目論見に加担してしまった私も同様なのだ。御剣検事はしどろもどろになっているリュウを見て、軽く溜息をついた。
「言え、成歩堂。一体何をしに来た?」
 来て早々チェックメイト、だ。赤い駒に追い詰められた青い駒は逃げることなどできない。だらだらともはや隠すことのできない汗を流しながら、リュウは口を開こうとした。

「あ、あ、あの! ごごごめんなさい!」
 急に、リュウではなく真宵ちゃんが叫んだ。急すぎて、事情を知るリュウでさえ何かを言いかけていた口がぽかんと開いたままになっていた。
「あの、実は……」
「何だろうか、真宵君」
 少し言い淀む真宵ちゃんを御剣検事が促す。
「……事務所の、エアコンが……壊れちゃった、んです」
「エアコン?」
 今度は御剣検事が口をぽかんと開ける番だった。

 そこから真宵ちゃんが説明した事の次第はこうだ。この真夏、しかも今年一番の蒸し暑さを記録するという予報が出た今日、そんな日に限って事務所のエアコンが故障してしまい、冷風が出なくなってしまった。途中までは我慢できたもののそんな状況で仕事をしているなるほどくんがあまりにも可哀相で、とりあえず涼しいところに出かけようと提案した。でもエアコンの修理代もあってお金はかけられない。じゃあどうしよう? そこで思いついたのが……。

「……ミツルギ検事のオフィスだったんです」
 すべてを語り終わった真宵ちゃんはしゅんとして小さくなっている。詳しい事情を聞いたのは私も初めてだった。何せリュウは「ちょっと今から御剣の執務室に涼みに行きたいんだ。うまく話つけといてよ」などと言うだけだったからだ。説明不足すぎて、ただの我侭にしか聞こえないじゃないの!
「というわけだよ。ごめん、御剣。最初からそう言ったら絶対来るなって言われそうだったり」
 その言葉を聞いて呆れたように溜息をついた検事は、お客様用のついでにと私が淹れてきた紅茶に口をつけてリュウを見た。
「当たり前だろう。人の職場に涼みに来るという発想がそもそもどうかと思うがな。普段ならば追い返しているところだ」
 本日三度目の溜息をついて立ち上がる。
「しかし……事情が事情だ。それに真宵君の頼みというのなら断れないからな」
「え、いいんですか」
「ああ、構わない。落ち着くまでここでゆっくりしていくといい」
「わ、ありがとうございます!」
「助かるよ、御剣」
「お前だけだったら叩き出していたがな」
「ひでえ!」
 なんだかんだ言って許してしまう御剣検事はこの二人に結局甘い。そのことに苦笑していると、検事の視線がこちらに向けられたような気がした。……あくまで気のせいだと思いたい。私は気付かないふりをして真宵ちゃんとリュウの会話の輪に加わる。仕事はしばし休憩だ。四度目の溜息が聞こえた気が、した。


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