「なごみ君」
 日が傾き、そろそろ気温も下がってくるだろうというところで二人は帰っていき、いつも通り執務室には私と御剣検事の二人だけが残っていた。まるで嵐が去っていったようだと思いコップの片づけをしていると、ふいに御剣検事が声をかけてきた。
「なんでしょう」
「君は……知っていたな」
「……なんのことでしょうか」
「彼らが何のためにここに来るかということを」
「さあ……詳しくは教えてくれませんでしたから」
「君らしくもないな、ケーキに買収されるとは」
「知ってるんじゃないですか!」
 不意打ちだった。まさかとは思ったが、そこまで知っているとはまったく思わなかった。さらっと言ってのけた御剣検事の言葉にわなわなと震えている私を見てふっと笑うと、彼はとんでもないことを口にした。
「帰り際に成歩堂の奴が丁寧に教えてくれたよ。君がケーキ博覧会に驚くほど飛びついてきたとな」
「あ、あいつ……!」
 売りやがった。私のこと売りやがった。自分から餌を垂らしておいて目的が達成できたら捨てるなんて酷すぎるじゃないの……!
「許さない。絶対許さない」
「まあそう怒るな。今回は仕方がないだろう、真宵君に免じて許してやってくれないか」
「……分かりました、真宵ちゃんだけは許します」
 憎しみを込こめて言い放つと御剣検事は苦笑した。そして、私に向き直る。

「さて、なごみ君」
「はっ。なんでしょうか」
 その声色が事務的な響きを帯びていたため、思わず姿勢を正す。
「君に折り入って頼みがある」
「なんなりと」
 あっけなくケーキに魅入られてリュウの企みに嵌ってしまったという罪悪感もあったからか、あっさりとそう言ってしまったのが間違いだったのかもしれない。

 その「頼みごと」から数分後、私はこの地下倉庫に向かうことになっていたのだ。地下倉庫には普段は滅多に使わないが、以前の裁判や事件で重要なものとされた証拠品が保管されている。私の上司はそれを必要としていたらしいのだが、如何せん滅多に使われないという事実がネックだ。滅多に使われないということは滅多に人が立ち入らないということで、掃除も行き届いておらず妙に埃っぽい。彼はここに入るのが嫌だったのだ、絶対。私に取りに行かせるつもりで、その機会を窺っていたに違いない。そこで今回の事件だ。……まったく、いろんな人にいいように使われているような気がして仕方がないのだけれど。
「掃除くらい、しといてよね……っ」
 書類を引っ張り出しながら腹いせに悪態をつくと、やはり埃が舞い上がった。あと一つ、探し出せればここから出ることができる。くそ、腹が立つけど私も悪い。自業自得だ、と思い心の中で御剣検事に謝ってみるが、やはり私にとって魅力的なのはいつまで経ってもケーキなのであることに気付いて、腹の虫が騒ぎ出しそうになってしまった。



***



「御剣検事、ただいま戻りまし……た?」
 埃まみれになってしまったスーツを手で払いつつ、右手に大量の資料を抱え、左手でコンコンとノックをして執務室の扉を開けると、デスクに彼の姿はなかった。

「……どうしよう、すごく珍しい光景なんだけど」
 デスクにはなかっただけで、彼はしっかりとその部屋に存在していた。……そう、ソファに横たわりしっかりと目を閉じた状態で。
(御剣検事が寝てるところ、初めて見るかもしれない)
 そういえば、と思い当たる。最近立て続けに裁判があったせいでずっと忙しそうにしていた。事務官という立場上手伝えることにも限度があり、最後にはやはり御剣検事自身で処理しなければならないことも多いのである。それを心苦しいと思いつつも、彼は「仕事だからな」の一言で颯爽と片付けてしまう。その点は、心から素直に尊敬できる。ただ、そのせいで最近はどうやら寝不足だったらしい。こんなところで無防備に寝姿を晒しているのがその証拠だ。
 そこまで考えて私の頭の中で様々なことがぐるぐる回り始める。そう、時刻はそろそろ終業時間なのだ。執務室の鍵はどうしよう……いや、どうせ彼のことだ、連日残業だったのだから今日もその申請はしてあるだろう。鍵は時間までに返さなくていいとして……

 この人は、どうしよう

 少し近づいてみるものの一向に起きる気配は見せず、それどころか、なんだか眉間に皺が寄っている。
(何も寝てる時までそんな顔しなくてもいいのに)
 苦笑してみたが、よく見るとどうも、おかしい。どこか苦しげな表情で、時折呻き声まで聞こえる。
「え、ちょ……ど、どうしよう」
 そこでやっと、あまりよろしくない事態なのではないかと思い当たって、少し慌ててしまう。一人暮らしの私にとって、普段構うのは自分だけでであるからこういう状況に弱いのだ。とりあえず、もうちょっと今の様子を確認しなければならない、と思いまだ抱えたままだった資料を検事のデスクに置き、給湯室で埃っぽくなってしまった手を洗ってから、再び彼の傍に寄る。やはり、少し苦しそうだった。

「熱……はない、か」
 ごめんなさい、と言って検事の額に手を置いてみたが、異常な熱さは感じられなかった。そのことに少しほっとするが、だとしたら原因は何なのだろう。ここ最近の激務の疲れだろうか。彼は仕事に熱中すると食事さえ疎かにしそうだ、と思い、目を覚ました時に何か食べるものがあった方がいいだろうという結論に達した。そうと決まれば話は早い。スーパーが閉まってしまう前に何か買ってこなければ。彼に似合うような高級食材は調達できないが、一人暮らしの意地だ、栄養のつく簡単メニューならいくらでも作れる。

 そうして財布を取ろうと自分のデスクに歩み寄ろうとした瞬間、驚くほど強い力で前進を阻まれた。
 振り返れば、先ほどまで御剣検事の額に置いていた私の右手の手首が

 がっちりと、掴まれていた

「うそ、でしょ」
 それは女の自分には振り払うのは難しいほどの力だった。寝てるくせにこの馬鹿力は何なのだ、そもそも寝てるのだからピンポイントで私の手首を掴むな! ……そう言いたかったのだが、私の手を掴んでいる本人は相変わらず苦しそうで、どうにも酷い言葉をかけるのが憚られた。その間にも、彼の手に入った力が緩められることはない。一体、何でこんなことに……

 力が強い、痛い、血が止まる──
 再びぐるぐると色々な思考が頭の中を駆け巡り、最後にたどり着いたのは

「……どうしよう。買出しどころか家にも帰れないじゃない」
 今夜は、サービス残業になってしまいそうだった。
 もう、ここまで来たら腹を括るしかない。いつになるかは分からないが、こうなったら御剣検事が目を覚ますまで付き合ってやる、そう決めた。もちろん起きたら埋め合わせはしてもらわなければ割に合わないし、それに。

 その、苦しそうな表情の訳、踏み込んではいけないのだろうけれど

 どうして、そんなに悲しい顔をするんですか

「……ええい、もうどうにでもなってしまえ!」
 小さく呟いて、ソファの傍の床に腰を下ろす。地べたに直接座るのは気が引けたが、今更そんなこと言っている場合ではない。
「なんだかなあ……」
 無理やりに手を繋がれているような奇妙な感覚に陥って、苦笑いが零れた。この出来事をリュウや真宵ちゃんに話したらどんな顔をするだろう、冥ちゃんは笑うだろうか、イトノコ刑事にも報告したほうがいいのかな……無駄なくらい心配しそうだけど、などと考え、とりあえずは目の前の空腹を紛らわすことに集中しようと思った。



***



 妙な重さで目が覚める。

「……む?」
 最初に視界に飛び込んできたのは、日中に見慣れているはずの天井だった。自宅ではないのか……とぼんやりとした頭で考えると、唐突に思い出した。
「しまった……」
 そうだ、部下に仕事を頼んだ後にここ数日の間使い続けていた頭を少し冷やそうとソファに座ったのだ。それ以降の記憶が曖昧だが、この状況を見るとどうやらそのまま眠りに落ちてしまっていたようだった。無理な体勢で寝たせいか、所々体が痛むが、いくら仕事場といえど調度品には気を使っている。不快な目覚めではなかった。
 時計を見ると、時刻は夜中の3時半過ぎ。もはや明け方に近い夜中だな、と思い溜息をつく。幸い残業申請はしてあったため特に問題はないようだった。そういえば、彼女はどうしたのだろう。さすがにもう帰ってしまっただろうな……無事地下倉庫から資料は発掘できたのだろうか。あの場所は混沌と呼ぶに相応しい、ある意味恐ろしい場所だ。ちょっとした悪戯心であったとはいえ、さすがにやりすぎてしまったようにも思える。しかし、彼女がケーキ好きなのは重々承知していたが、あそこまで見事に成歩堂の浅はかな企みに引っかかるとは……少し意外だった。もしかしたら、彼女は自分が思っているよりもまだ少女に近いのかもしれない。

 そこまで考えて体を起こそうとして、やっと、目覚めた時の妙な重さの正体に気付く。
「な……」
 なんだ、この状況は。

 見れば自分の部下、如月なごみは私の膝から向こう脛にかけた部分に覆い被さってすやすやと規則正しい寝息を立てていた。さらに驚くべきは、自分が、彼女の手首を、しっかりと握っていたこと。あまりの細さに驚き、そしてその事実に驚く。
「……私は、一体何を」
 何をしたのか、まったく思い出せない。しかし、自分のせいで彼女が家に帰らずに執務室に留まることになってしまったのは明らかだった。申し訳ないと思う反面、何故振りほどいて帰らなかったのかと疑問が頭をもたげてくる。
「……いや」
 そうではない。

 自惚れだと言われてしまうだろう。しかし、自分の信頼する部下である。それと同じくらい、きっと彼女は私のことを信頼してくれているはずだ。彼女のその心が、帰ることを許さなかったのかもしれない。
(……確かめようのないことを考えていても仕方がないな)
 とりあえず、今は彼女のことを起こすのはやめておこう。私もしばらく、彼女と一緒に再び眠りに就くことにしようか、と考えて起こしていた上半身を元あった場所へと戻す。

 そういえば、夢を見ていた。
 しばらく見ることのなかった、あの夢。成歩堂が晴らしてくれた、私を縛るあの記憶。何故再び私の前に現れた?

 そこまで考えて、そうか、と思い当たる。なごみ君が成歩堂に釣られたというあのケーキを作っている店、名をラ・メール洋菓子店と言っていたような気がする。それが正しければ、その店のケーキは彼女が初めて私に買ってきた土産物だった。出先から戻った彼女はやけに嬉しそうな顔で「一緒に食べましょう、御剣検事!」と言ったのをよく覚えている。その頃、幼少から途切れることなく続いていた悪夢にうなされる毎日を過ごしていたことも、はっきりと記憶している。

 私は彼女に尋ねた。
『何故急にケーキなど買ってきたのだ?』
『お、お気に召しませんでしたか?』
『いや、そういうわけではない。非常に美味しいな、これは』
『よかった……!』
 彼女はほっとしたような笑顔を見せた。
『私が御剣検事の部下として一緒にお仕事をさせていただくようになってから、あまり元気がないように見えたものですから。……私の力不足のせいかもしれない、とも思ったのですが、どうすればいいか分からなくて』
 なので、と彼女は続ける。
『喜んでいただけるか分からなかったのですが、美味しいものでも食べれば元気になってくださるかな、と』

 そう言って、恥ずかしそうに目を伏せたことも、覚えている。彼女なりに気を使ってくれていたこと、また気を使わせてしまっていたこと、それに気付かなかった自分の情けなさに呆れてしまった。
 しかし、それよりも、私には目の前のケーキの美味しさが身に沁みていた。ああ、これが心のこもったものなのだと実感し、知らず顔が綻ぶ。
『君の力不足などではない。なに、少し疲れていただけだ。今後も頼りにしているぞ、なごみ君』
 それと、この店のケーキをまた買ってきてくれるだろうか、と付け加えると、非常に嬉しそうな顔を見せたこともまた、覚えている。

(恐らく……)
 ラ・メール洋菓子店という言葉で当時のことを思い出してしまい、あのような夢を見てしまったのだろう。忘れられたと思っていたのだが、まだ私の近くで息を潜めている可能性も捨てきれないな、と己の弱さに苦笑する。


 しかしきっと、彼女がいれば、またケーキを片手に執務室の扉を開け、私の悪夢を和らげてくれる
 そう信じてしまいたくなる自分が、そこにいた

 いつか本当に、遠い昔の記憶だ、と切り捨てられるように。成歩堂や真宵君、目の前で眠る彼女が切り開いてくれた道を無駄にしないように。強くならなければならない、と感じた。

 また朝が巡ってきたら、彼女に何かお詫びをしてやらなければなるまい。やはりケーキが喜ぶのだろうか、などと考えていたら再び睡魔に襲われた。
 掴んだ手はそのままに、また深い眠りへと落ちていく。

 きっと、今度は悪夢などではない