追いつ追われつ


 恐ろしくタイミングが良かったのだ。
 それは、ちょうど頭の中で紅莉栖と付き合い始めてからの時間を指折り数えているところだった。ひと月目で親指、ふた月目で人さし指。順番に折りたたまれ、そして再び伸びていく自分の指を見つめる。そうやって拳が握られて、開いていく様がやたらとこそばゆくて、行きどころに迷った感情がぐるぐると渦巻いていた。
「何ぼけーっとしてるのよ」
「ぼーっとしている、だと? フン、笑わせるな! 俺は灰色の脳細胞を総動員させてこの地を混沌に陥れるための次の未来ガジェットの構想を練っていたのだ! フゥーハハハ!」
「大声を出すな! 近所迷惑でしょうが! ついでに言うけど、名探偵の言葉を借りるのは自称マッド・サイエンティストとしてどうかと思う」
「ぐ……」
 言葉に詰まれば、紅莉栖がくすりと笑う。してやったり、と言いたがっているその笑顔が夕日に照らされた。
 もう間もなく、橙色と、夜の訪れをを知らせる藍色が空で混ざり始めるだろう。夕方と夜の狭間を背に、紅莉栖をホテルまで送り届けた俺はロスタイムを享受する。
「送ってくれてありがと」
「ああ」
「明日もラボに行くから」
「うむ、待っているぞ」
 いつもこの場所で交わされる他愛ない会話は、離れがたい二人を繋いでいた。
「……」
「……」
 いつもならばここで終わるはずの時間が今日は寸前で止まってしまう。無言の先に見えたのは、紅莉栖の揺れる瞳だった。
「あ……」
 そこに意味を持たせてしまったのは俺の早とちりだっただろうか。しかし、そんな懸念はすぐに吹き飛んだ。思わず握った紅莉栖の手は温かくて、震えていた。
 付き合い始めてからどれくらいが経ったのだろう。ついさっき数えていたはずのことが思い出せない――思い出せないが、数を追っていた右手は、最後にはしっかりと掌を見せていたはずだった。そうして重ねてきた時間の中で彼女に触れたのは、今度こそきちんと覚えていられるほどの数だ。最先端で活躍する研究者であることを忘れてしまうほどにいつだって繊細で女の子らしい手と、見た目とは裏腹に柔らかな唇、そして抱きしめればすっぽりと収まってしまう華奢な体。俺の感覚が知っているのは、それだけだ。
 そう、タイミングが良すぎたのだ。

「どうしてこうなった……どうしてこうなった……!」
 紅莉栖はベッドに腰掛けて頭を抱えながら呻く。すっ転んで頭をぶつけたわけでも、タイムリープに失敗したわけでもない。こいつは多分、ただ自分の置かれた状況を認めたくないだけなのだろう。
 俺はと言えば、少し呆然としていた。紅莉栖の手を掴んだまま、そして彼女の抗議の声を背中に聞きながら部屋までやって来たところまではよかった。観念したように扉の鍵を開けた紅莉栖に続いて足を踏み入れた瞬間、洗練された空気に圧倒されていた。セレセブの名を持つ紅莉栖のことだからある程度は覚悟していたのだ。それなのに、あっさりと予想の斜め上を行きやがった。当然この空間における己の存在の場違いさに及び腰になり、どうしようもなくなった挙句ぎこちなく窓際の椅子に座ってみる。その結果、ラボの使い古したものとは大違いの弾力に唸るしかなかった。
「うう……」
「クリスティーナ」
 調子を取り戻そうと何とは言わずに呼びかければ、その意図を汲み取ったのか否か、紅莉栖は枕を投げつけかねない勢いで応えてくる。
「だって、こんなの!」
「大体、元はと言えばお前のせいだろう」
「私は一言もそんなこと口にしていない!」
 そんなこと、と言っている時点で隠しきれていないことに、こいつは果たして気付いているのだろうか。
「お前の顔がそう言っていた」
「そんなわけあるか!」
「じゃあさっきのは何だ」
「……別に何でもないわよ」
「ツンデレ属性では飽き足らずついに構ってちゃん属性も身に付けたか、クリスティーナ」
「違う! ねーよ!」
 紅莉栖はどさりとベッドに倒れこむと、うつ伏せになっても尚ぶつぶつと文句を垂れる。
「あーもう……フロントの人に男連れ込んだと思われたらどうしよう」
「手遅れだな」
「あんたが言うなあああ!」
「うおっ!?」
 今度は本当に枕が飛んできた。胸で受け止めると、少しばかり埃が舞った。あのなあ、と立ち上がっても、彼女はダブルベッドに体を投げ出したまましっかりと俺に背を向けていた。紅莉栖の線の細さが強調されて、一瞬戸惑う。目の前のその光景は、乱れたところなど一つもない。それなのにひどく扇情的だった。
 こいつは分かっていない。俺は男で、紅莉栖のことが好きで、好きで、いつだって自分だけのものにしたいと思っていることを、分かっていない。

 愛するものが増えるほど、別離の悲しみも増えていく。否応なく気付かされたあの時から、何も求めないと決めていた。ずっと隣で笑っていてくれればそれでいい。そのはずだったのに、想いを通じ合わせた時から既に、独占欲は隠せなくなっていた。
 紅莉栖には罵られるかもしれない。だが、抱きしめるだけでは、唇を触れ合わせるだけでは、満足できなくなるくらいに二人の時間は流れていた。もっと奥に触れたくて、もっと深く触れたい――そんな欲望はきっと俺だけのものではないと、カクテルスカイを映した彼女の瞳が物語っているような気がしていた。

 ベッドに近付くと、膝から体重を預けた。ぎし、という音に驚いたのか、紅莉栖が体を起こして振り返る。鼻先で彼女の髪が翻った。自分にはない香りが広がっていき、余計に急き立てられる。
「え、ちょ」
「言いたいことがあったら口に出して言え」
「おか、」
 紅莉栖を抱き寄せると皆まで言わせずに唇を塞ぐ。言葉を求めたのに、俺はなんて我侭な男なのだろう。
「ふ……あ、っ」
 長くて深いくちづけの後に待っていたのは、紅莉栖の困惑したような、しかしどこか艷めいた視線だった。
「……バカ」
 ほとんど涙目になっている紅莉栖の瞳を真っ直ぐ見つめると、心がチクリとした。欲望のままに突き動かされて、何かを見失ってはいないだろうか。独りよがりになることが怖くて、だけどその先に待つものが欲しくて、あまりにも乖離した願いに引き裂かれそうになる。抱きしめる力を緩めると、紅莉栖は不安そうに覗き込んできた。
「……岡部?」
「なあ、許してくれるか」
「ゆ、るす……って、何を」
「俺はお前を傷付けることになるかもしれない」
「……」
 唐突な言葉で戸惑わせてしまっただろうかと胸の奥底で不安を燻らせていると、紅莉栖はしばらく何かを思い巡らせ、不意に目線を逸らした。彼女の現状を誰が見ても首肯するだろうというほどに、その頬は紅潮していた。
 たっぷり三十秒ほどの間があっただろうか。やがて、小さな小さな声が、俺の鼓膜を震わせた。
「……私は、岡部になら、」

――ああ。
「きゃっ」
 どさり、という鈍い音が合図だった。最後まで聞かずに途切れた言葉の先は、彼女の中に仕舞っておいてもらうことにした。俺を見上げてくる潤んだ瞳は、いきいなり押し倒されたことに対する精一杯の異議のつもりなのだろうか。応えるように、紅莉栖の頬をそっと撫でた。
「岡部……」
 今に思い知らせてやる。
「お、かべ」
 たった一言、紅莉栖の言葉だけで簡単に崩れ落ちるほど、俺はいつだって独占欲に駆り立てられているんだということを、思い知らせてやらなければならない。
「紅莉栖」
「――っ」
 耳元で名を呼べば、彼女はふるりと睫毛を震わせた。そして、ゆっくりと俺の背中に回された手が白衣を掴む。俺はそれが紅莉栖の答えだと解釈した。