ヨカン


 嫌な予感、というものは往々にして的中する場合が多かったりする。
 古来から虫の知らせがどうの、などと言われていることからも分かるように、第六感の存在は人々の間で認められているように思える。


 果たして、岡部は朝からその“予感”とやらに苛まれ続けていた。着替えの最中にベルトが切れた。出掛けに玄関で派手に躓いた。道中目の前を横切った黒猫には威嚇された。どれもこれも、ベタにもほどがある。だからこそどうせ大したものでもないだろう、という楽観的な考えが頭を占めてはいたのだが、どうしても浮き足立ってしまう。
 どことなく落ち着かないまま、ラボへと足を運ぶ。目に入ってきたビルの二階に視線を投げるとそこは静まり返っていた。その下のブラウン工房も、人のいる気配が感じられない。自分に危害が加えられるならまだしも、まさか周りを巻き込んだ何かが起こる暗示だとしたら――そんなことを考えながら階段を登っていると、一段踏み外しそうになって肝を冷やす。
(はは……何もないさ。いつも通りに決まってる)

 ラボの扉を開けた瞬間、岡部の願いも虚しくそれは確定した。




「ハロー。……ああ、岡部か」
 岡部を出迎えたのは、珍しく紅莉栖一人であった。橋田もまゆりも、その他のラボメンも見当たらない。それ以外に変わった様子はなく、至って普通の光景である。安堵の溜息が溢れ出すのも束の間、激しい違和感に襲われて岡部は勢いよく顔を上げた。
 そして、正解は目の前に転がっていたのだった。
「な、お、おま……」
「ちょっと、顔色悪いわよ? 大丈夫?」
「そんなことはどうでもいい! お前、何してる……?」
「何って、見れば分かるでしょ」
 紅莉栖が立つ場所は、ラボに備え付けられているコンロの目の前だった。ゆっくり紅莉栖の背後に近づいてみると、その周りには何やら本が散乱していた。しかし、それは紅莉栖がいつも目を通しているような専門書でないのは明らかだった。メモ書きと思われる紙も無造作に至る所に置かれ、火を扱うにしては少々不用心だという印象を受ける。
(いや、そうじゃなくて)
 つい状況を冷静に分析してしまい、岡部は頭を振った。とにかく、ひとつ気づくとこの部屋のすわりの悪さが次々と押し迫ってくるのだ。あと、やけに煙たい。
 だが、極めつけはその衣装である。もうあえて“衣装”と呼ばせていただく。紅莉栖が身に纏っているものはいつもの白衣ではなく、エプロンだった。エプロンといえば、それは多くの場合何かしらの家事、特に料理をする時に着用するものであって――

「食事の準備よ」
 ビンゴだった。こればかりは当たってほしくなかったのだが、もはや否定のしようがなくなってしまう。
「な、何故またそんな……」
 無謀なことを、という言葉はすんでのところで飲み込むことに成功した。
「さすがにね、健康に気を遣わないとなあ、って思って」
「待て、クリスティーナ。早まるんじゃない」
「ねえ岡部、あんた本当にどっか具合でも悪いんじゃないの?」
 話聞いてる? と少し憮然とした顔が向けられる。聞いているといえば聞いているが、それを理解しているかはまた別の問題なのである。
「あ、もしかしてお腹空いてるの? それならちょうどいいわ。多めに作ってあるから岡部にも分けてあげる」
 一人で納得して話を進める紅莉栖に、こいつは何を言っているのだと一瞬本気で考えこんでしまった。

 普通、女性が――それが想い人であろうとなかろうと――エプロンをつけて『あなたのためにご飯を作っておいたの』だなんて言ってきたら、嬉しくないはずがない。
――ない、はずなのだが。

「いいか、落ち着けクリスティーナよ」
「それはあんたの方だろうが!」
 要領を得ない受け答えに、さすがに紅莉栖も苛立ったらしい。今にも突っかかってきそうな視線を受け流して、岡部は至って冷静に話を進める。
「まずは俺の質問に答えてもらおう。どうしていきなり料理なんかしようと思ったんだ」
「だって、外食とカップ麺ばっかりだと体に悪いじゃない? 研究に支障が出ても困るし」
「……普段料理をしない人間がいきなり自炊など始めても、健康のためにはならないと思うのだが」
 さっきから視界に入ってくる鍋を見ながら、岡部は精一杯のアドバイスを贈ったつもりだった。どうやったらあんなに禍々しいオーラを放てるのだろうかというほどに、鍋の中身はぐらぐらと煮えたぎっている。お前の場合自炊という行為自体が研究生命の危機なんじゃないのか、という本音は必死に抑えこむ。脳科学の天才少女は自分のことに関してはてんで見通しが立たないらしい。
「それは分かってるわよ。ノウハウがない人がいきなり手をつけても何もできるわけがない」
「じゃあ……」
「漆原さんにね、教えてもらうことになってるの」

 紅莉栖の口から珍しい名前を聞き、岡部は面食らう。まゆりからの繋がりなのだろうが、彼は確実に紅莉栖に振り回されるだろう。なにより、るかのスキルを以てしても、料理に関しては暗黒レベルの紅莉栖の腕が制御しきれるか分からないのだから恐ろしい。そんなるかの行く末を思って、強く生きろ、と今のうちに心の中で慰めておくことにした。
 しかし、今の問題はそこではない。目の前の行為をいかにして阻止するか、だ。
「ルカ子に教えを請うというのならば、おとなしくその日を待てばいいではないか」
「それはそうなんだけど……事前に予習でもしておいた方が漆原さんの負担が減るかな、って思って」
「……」
 何もかもが裏目に出ている。はっきり言って、最悪の事態だ。

 そんな表情を読み取ったのかどうなのか、紅莉栖は岡部に詰め寄ってきた。
「なによ、私が料理するのがそんなに嫌なの?」
「い、いや……そういうことではなくてだな……」
「人の気持ちも知らないで……!」
 紅莉栖はびしっ、と尋問中の弁護士よろしく手に持っていた菜箸を岡部の目の前につきつけた。
「あぶなっ!」
 不満そうに岡部を睨んだ紅莉栖は、まるで自分に言い聞かせるような口調で悪態をつきはじめる。
「何事もやらなきゃ上達しないでしょうが! だいたい、自分のためだけに料理できるようになろうとしてるわけじゃ――」
「……え、そうなのか?」
「えっ……あ、いや、そうじゃなくて……!」
 先ほどまでの不機嫌な態度はどこへやら、紅莉栖は急に口を押さえて顔を赤くする。尋常ではない慌てぶりに、今度は岡部が訝しむ番である。そして、本日二度目の落ち着け、という言葉を掛けようとした矢先のことだった。
 今までとは比べものにならない、いっそ危険な雰囲気をはらんだ違和感が岡部を襲った。


「……ん?」
 鼻を突く匂いに、異変を感じ取る。それは紛れもなく、紅莉栖が背を向けている例の暗黒鍋の方角から漂ってきている。
「おい、焦げ臭くないか……?」
「え」
 時間ごと停止したかのように、紅莉栖はぴたりと動きを止めた。二人が振り返った先には黒煙を噴き上げる鍋が異様な存在感を示している。
「あああああ、火にかけっぱなしだったあああ! まずい! 焦げる!」
 焦げても焦げなくても結果は一緒だろう、とツッコミを入れようとした矢先、岡部は自分の目を疑った。あろうことか、紅莉栖は湯気を勢いよく噴出している鍋の蓋にそのまま触れようとしていたのだ。その先に待つ結果は明白だ。
「あっ、バカ、紅莉栖待て……!」

 人間、焦ると何をしでかすか分からない。


「あのなあ、こういう時はまず火を消すんだ。滅多に料理などしない俺でも分かるぞ」
 ぱちり、と左手でガスのスイッチをひねる。コンロから火が消え、騒ぎ立てていた鍋も静けさを取り戻した。煙たいのは相変わらずだが、まあ換気すればいいだろう。
「あ……えと……」
「火を使うのだから、これくらい心得ておけ。いいな?」

 しどろもどろになったらしい紅莉栖の反応が鈍い。ラボメンに怪我をされては監督者として申し訳が立たない。皆の安全のためにも、自由なラボの中でも最低限のことは徹底しなければならない。それを分かってほしいのだが、未だに紅莉栖は沈黙したままだった。
「おい助手、聞いてる、の……」
 そこまで言ってようやく、紅莉栖から返事がない訳を理解した。

 右手は紅莉栖の右手をしっかりと掴み、左手は彼女の腰に回されていた。

 自分は紅莉栖をとにかく鍋に触れさせまいとしたらしい、と岡部は数秒のうちに状況を飲み込んだ。
「ご、ごめん……」
「……あっ、す、すまん!」
 紅莉栖の萎れた声に思考が引き戻され、ぱっと手を離して岡部は一歩飛び退いた。目など合わせられるはずもなく、岡部は大げさに白衣を翻した。
「とっ、とりあえず火の扱いには以後気をつけるように!」
「……わ、分かった。ごめんね、ありがとう」
 紅莉栖の素直な謝罪と感謝にすぐに気付けないほど、岡部は錯乱している。どうにか立てなおさねば、とポケットに手を突っ込むと、財布の固い感触が指先に伝わってきた。
「そ、そうだクリスティーナよ。今日の昼は俺が買ってきてやろう。どうせ鍋の中身はダメになってしまったしな!」
「う、うん……そうね。それがいいわ。悪いけどお願いする」
「フ……フゥーハハハ! お安い御用だ! 待っているがいい!」
「よ、よろしくね!」


 見送りの言葉を後ろに聞きながら、自分にできる限りの早足でラボから飛び出る。勢いよく後ろ手にドアを閉めて、そのままの勢いで階段を駆け下りた。ブラウン工房前のベンチによろよろと腰掛けた時には、既にすっかり息が上がっていた。
「ば……馬鹿か俺は……!」
 今の派手な動きを見られていないかと振り返った工房には相変わらず誰もいないのだが、その入口のガラスに映る自分の顔にぎょっとする。言い訳が利かないほどに、赤い。
「料理などしようとしたあいつがいけないんだ……うん……」

 だから、人間焦ると何をするか分からないと言っただろうが。
 自分の声が脳内に響くのを聞き、長い溜息が漏れた。熱が引かない理由など、いくらでも思い当たる。だが、今は紅莉栖のせいにしておかないと身が持たない。
「結局、予感は当たったということか……」
 そう納得させることにした。でなければ、こんな不覚を取るようなドタバタに巻き込まれるはずがない。そういうことにしよう。何にせよ、おかげで紅莉栖が火傷をせずに済んだのだ。これでよかった。ああ、本当に無事でよかった。あいつ、思っていた以上に華奢なんだな――

「だああああっ! 俺は一体何を!」
 すっぽりと自分の腕の中に収まってしまった紅莉栖の、女性特有と言える柔らかな感触を思い出し、その時に鼻先をくすぐったささやかな香りを思い出す。
「なんという……精神攻撃だ……」
 落ち着いていられるか! と叫び出しそうになっていることが、既に十分精神を乱されている証拠ではあるのだが、岡部は気付かない。
 これ以上じっとしていても、色々と不都合だということはよく分かった。岡部はまず紅莉栖との約束を果たそうとコンビニへと足を向けることにする。帰ってくる頃にはほとぼりも冷めているだろう、と期待を込めてベンチを後にした。




「バカ……岡部のバカ……! びっくりしたじゃない……!」
 同じ頃、顔を真っ赤にした紅莉栖がラボの床にへたりこんでいたことを、岡部はまだ知らない。
「朝からストッキングは伝線するし、白衣は引っ掛けてほつれちゃったし、もう……今日最悪……!」


 予感というものは、往々にして的中することが多いのだ。