What’s your name ?


 紅莉栖が、最近返事をしなくなった。
 岡部からしてみると、用事があって呼びかけているというのに、それに反応してもらえないのは困る。だから、しつこく何度も何度も彼女を呼ぶ。すると、最後には痺れを切らしたように、だが不機嫌さを隠さず岡部に向き直る。そして不思議なのが、向こうからはほぼいつも通りに言葉が飛んでくることだった。岡部はその都度面喰らいながらも、それに応える。無視をされているわけではなさそうだった。これがここ最近の岡部と紅莉栖のやり取りの基本である。
 正直、非常に面倒くさい。
「なんだ、俺あいつに何かしたか……?」
 そこで思い浮かぶのは、紅莉栖がラボの冷蔵庫に入れていたプリンを勝手に食べてしまったことや、お気に入りのカップラーメンを勝手に食べてしまったこと、財布を持ち忘れたまま2人で出かけた先で彼女から借りることになってしまった昼食代を返し忘れていたことなど、であった。
(見事に食事関連ばっかりだな……)
 しかしここまで長引くとなると、恐らく問題はそれだけではないのだろう。これで何日目だろうか。岡部は壁に掛かったカレンダーに目をやる。そうだ、今日はちょうどあれから5日目である。はっきりと思い出せるのは、紅莉栖が素っ気無くなったあの日、もしかして大事な記念日でも忘れていたのではないか、と必死に暦とにらめっこをしたお陰だった。
 残念なことに、岡部がいくら唸ったところで原因とその解決策など出てくるはずもなかった。簡単に思い当たれば、こんなに長引くはずがないのだ。

「ここは最終手段かつ強行突破しかあるまい」
「でかい独り言はやめろ、気が散る」
 状況は幸か不幸か、ラボに2人きり。紅莉栖はソファにゆったりと腰掛け、論文に目を通していた。試しに呼びかけてみる。
「なあ、助手よ」
「……」
 まるで岡部などそこに存在しないかの如き清々しい受け流しである。つい数十秒前に自分から声をかけておきながら何たる態度だろう。そちらがそう出るならば、としつこく迫る態勢は既に整っている。紅莉栖の隣にどかっと陣取り、ドクペの封を開ける。一瞬紅莉栖が身を強ばらせたように感じたが、とりあえずは気にしないことにする。ちらりと覗き見た論文はやはり英語だらけで、思わず目が滑った。
 最終手段とはつまり、“強引に聞き出す”ことに他ならなかった。
「おい、助手、聞いてるのか?」
 残暑厳しい太陽光を窓越しに浴びながら、ラボには扇風機が必死になって首を回す無機質な音だけが響き渡る。負けるものか。
「今この部屋には俺とお前だけだ。つまり、俺はお前に話しかけている」
「……」
 返事の代わりのつもりなのか、紅莉栖の口からはぶつぶつと英単語を反芻する声が漏れてくる。しかし、それ以上の反応は一切ない。思わず溜め息をついてしまった。頑固者め。
「単刀直入に聞くぞ、助手……何が気に入らない? この間から一体どうしたというんだ」
「どうもしないわよ。あったとしても岡部は関係ない」
「関係ないわけあるか馬鹿者。あのな、口で言わなければ分からないぞ。俺はそんなに器用な男じゃないからな」
「自分で言うか、そういうこと」
「お前が話すまで引き下がらんぞ」
「……バカ岡部」
 この期に及んでもまだ、紅莉栖は視線を動かそうとはしなかった。しかし、岡部はそんな彼女の指に、論文を読むためには恐らく使わないであろう力が込められていることに気付く。紙に皺が寄ってしまっていることを紅莉栖は理解しているのかいないのか。一体何を溜め込んでいるというのだろう。それを分かってやれない自分も情けないのだが、と岡部は再び彼女の名を口にする。
「クリスティーナ……」

 岡部のその言葉が、これまで頑なだった紅莉栖の何かを解いてしまったかのように、彼女は手に持っていた紙をばさりと膝に叩きつけた。ラボに動きが生まれる。その視線は、久しぶりに彼女から能動的に真っ直ぐ岡部を射抜いた。
「だから……っ、私は助手でもクリスティーナでもないと言っとろ――」
 お互いにはっとしたように動きを止めた。数週間前の人混みの中、2人を繋いだきっかけの言葉で、きっと同じ場面がフラッシュバックしたのだろう。そんな動揺を振り払ったらしい紅莉栖はキッ、と岡部を見つめ直す。意図せず狼狽えてしまう。
「そ、そうだったな……すまん」
「……何よ、すんなり謝るわけ……?」
 紅莉栖から一瞬にして力が抜けていく。いよいよ岡部にも彼女が何を考えているのか分からなくなってくる。そんな表情から、まるで意味が分からない、と考えていたことを読んだのか、英単語がびっしりと詰め込まれた紙で今度は岡部をバシバシと叩いてくる。
「や、やめろ助手! しゅんとしたかと思えば暴れ出すし、お前ほんとに忙しい奴だな!」
「あー、もう! だからバカ岡部なのよ!」
 バカと言った方がバカなのだぞ――という古典的な反論は、岡部の口から出ずに終わってしまった。
「わたしには!」
 岡部が口を開く前に、そんな叫びと共に紅莉栖が立ち上がる。書類は落ちて床に散らばってしまった。あっ、と思う間もなく紅莉栖が言葉を続け、そちらに顔を向けると、彼女の顔は耳まで朱に染まっていた。
「わたしには、牧瀬紅莉栖っていう名前があってだな! あんたが思っているよりそんな自分の名前が好きで!」
 すうっ、と息を吸い込む音が聞こえる。
「……それは、あんたがその名前を呼んでくれるからよ!」

 思いを告げ、思いを確かめてから、日はそこまで経っていない。確かに、彼女の本当の名前を呼んだ記憶は数えるほどしか思い当たらなかった。
「……あー、いかん、これはまずい。非常に恥ずかしい件について」
 自分の発言のこそばゆさをかき消すかのように、紅莉栖はあたふたと手を空中でばたつかせる。
「やっぱり、い、今のは聞かなかったことにしといて」
 目の前で顔を赤らめてそっぽを向く彼女が何を求めているか、流石に今の岡部には理解はできた。いつまで経っても助手と呼ばれることを、紅莉栖は良しとしていない。別にそう呼んでいるからといって、岡部は彼女を助手扱いしているつもりはなかった。しかし、問題はそこにあるわけではないらしい。
(らしい、というか……)
 分かってはいる。まゆりからも散々言われてきたのだ。


「オカリンは、なんでクリスちゃんのことを『助手』って呼ぶのー?」
「愚問だな、まゆり。クリスティーナはこの鳳凰院凶真様の忠実な下僕かつ有能な助手に他ならないからだ!」
「それはもう知ってるよー。まゆしぃが聞きたいのは、そういうことではないのです」
 まゆりの宥めるような、諭すような、それでいて優しい視線に耐え切れずに目を逸らしたことが何度あっただろうか。そのたびに高笑いを響かせてごまかし、まゆりの不満そうな「もーオカリンってばー」という声を背後に聞いていた。


 勢いに任せて本音をぶちまけてしまった後のこの空気を持て余したかのように、しかし何かを期待するように、視線を泳がせて紅莉栖が佇む。彼女が望むものはもう分かっている。そろそろ、向き合わなければなるまい。
「く、りす」
 気恥ずかしさからか、一度それを意識してしまうと喉が乾いてしまいすらすらと言葉が出てこない。
「――っ!」
「紅莉栖」
「……うん」
 何度も絶望に飲み込まれながらやっと手にできた時間が、きちんと流れていることを実感する。この流れが、どこに、何に収束するかは分からない。それでも、手元にあるのは彼女の確かな体温。先程まで隣に座っていたことを示す、肩に残るぬくもりですら手放したくない。それは、いくら願ってもすり抜けていったものだから、余計にその思いは強くなる。
 大切でないはずが、ない。

 だから、もどかしくて、それだけじゃ伝えきれないような気がして、岡部は立ち上がって紅莉栖の腕を掴んだ。その勢いに驚いたのか、紅莉栖がびくっと体を震わせた。
「な、なに? どうしたの?」
「お、俺だって驚いている」
「……はあ?」
――こんなにも、余裕がないということに。
 助手だとかクリスティーナだとかザ・ゾンビだとかセレセブだとか、そんな呼び方で会話が成立していた時間がいっそ眩しく思えてくる。それで満ち足りていたあの頃が羨ましいほどだった。今は違う。それでは満足できなくなっている。何が悪いわけではない。二人の立ち位置が変わっただけであり、二人の距離が近づいただけである。

 そして多分それは欲だ、と岡部は思う。
(もっと)
 所有欲という名の、渇きなのだ。紅莉栖が岡部の口から流れる名前を欲すように、あるいはそれ以上に、紅莉栖を求めている。そんな焦りにも似た感情を表に出さないように、呼び慣れた渾名で蓋をしてきた。
「それだけじゃ、足りない」
「え?」
「足りないんだ」
 好きだとか離したくないとか、お前が愛おしくてたまらないとか、もう遠くに行かないでほしいだとか、自分が抱えている紅莉栖に対する思いは、彼女の名前だけには収まりきらない。どれほど呼びかけても、彼女に届くまでの間に空気に溶けてなくなってしまうのではないかと思えてしまう。
「岡部、主語がないから何を言ってるか分からな――」

 だから全ての感情を込めて、岡部は紅莉栖の唇を塞いだ。