アイマイ


 強い風に乗って、栗色の長い髪が思い思いの方向に遊ばれていた。雲を掴もうとせんばかりに大きく背筋を伸ばし、視線を上げる。ふと、妙な違和感に襲われて、すぐにその正体に気づく。
 空が高いのだ。

「あっれー……おかしいな」
 それが見えるはずの時期と、自分の体感していた時期とのズレに首を傾げた。どう考えても、季節の方が自分に追いついてきていないじゃないか、と不満げな表情を浮かべる。白衣のポケットに突っ込んでおいたかりんとうの袋を握る手に力が入って、かさりと音を立てた。腹立たしさから逃れるように手すりに背中を預ける。勤務中に凝り固まった体が、まるで全身に巻きついていた包帯がほどけていくように、解き放たれるのを感じた。
 視界はやはり開けていて、包みこむような青。ぼんやりと浮かんできたそんな言葉に気づいて、詩的な表現をするのは性に合わない、と苦笑いをひとつ青空に投げた。
(カガクに曖昧など許されない。全か無か、それだけ)
 共存できるものではないの、と胸の奥底から顔を覗かせていた言葉たちをたしなめ、お帰りいただく。
 午後二時。遅めの昼食をとった後のまどろみに逆らってたどり着いた警察署の屋上。さくっ、という音だけが響き、消えていく。

 季節すら感じることができていなかったことに茜は心底驚いていた。その驚きが不快感に変わるのに、そう長い時間を必要としなかった。そして、そんなことはとっくに分かっていたのだ。見ないふりをして横に置いておいたはずだった。だから忘れていたし、それでよかった。それなのに、わざわざ目の前に『君には余裕がない』と書かれた紙を突きつけられたようで、腹が立つ。
「むっ……かつく!」

 何かが、放物線を描く。
 気づいたときにはすべてが終わった後だった。言葉通り行き場のない怒りが頂点に達した瞬間、茜はかりんとうの袋に手を突っ込み、そのうちの一つを大声と共に放り投げていた。ご丁寧に手すりの外に向かって、である。
(しまった、いつもの……癖が……)
 この下は中庭だっけ、それとも署の入り口だっけ、と考えたところで、やめた。署内でかりんとうなど食べているのは茜だけである。そんなものが落ちているのを見かけたら、誰もがさくさくと音を立てて颯爽と歩く彼女の姿を思い浮かべるだろう。では、そんなものが落ちてくるのを見たとしたら、一体どうなるだろうか。
「……縁起でもない」
 さらに変人扱いされるのは目に見えていた。誰かお偉方に当たってなければいいんだけど、と茜は溜息をついた。それを合図にしたかのように、冷たい風が屋上を通り抜ける。やはり今は秋であるらしい。昔は、夏といえば休みの代名詞だったはずだ。自分の好きなことをあれもこれもやりたいんだと欲張って、この楽しい季節があまりにも短いと嘆いた。アメリカに行っていた時でさえ、夏になれば日本へ帰ってきていろいろな人に会った。今はどうか。夏があったことすら思い出せないことでその短さを実感するなんて、滑稽すぎる。
(やりたいこと、ね……)
 必死に追い求めて縋れば絶対に手に入ると信じて疑わなかったあの頃を懐かしいと感じてしまうことが、自分の余裕のなさを露呈しているようだった。今だって諦めているわけじゃないの、とお決まりの言葉が出てくる。そんなことをしたいわけではないのに、現状がすべてを言い訳にしてしまう。

 その菓子に重ねているわけではない。そのためにいつも手元に置いているわけでもない。思い出したわけでもない。
(でも)
 重力に逆らうことなく落ちていったそれに、急激に自分から離れていったそれに、はっきりと”彼”の面影を見てしまったのだ。私を救ってくれた彼はどこにいったのだろう。私の背中を押してくれた彼は、もういないというのか。
「成歩堂、さん……」
 返してよ、という呟きは誰に向けられた言葉か。
 彼が自分に──自分の影に、誰かを見ていたあの頃のことは、時間にしてみればとても短かったけれど、今でもはっきりと思い出せる。こちらを向いてもらいたくて前に進んだ。きっと見てくれる、と信じて帰ってきた。今度は“宝月 茜”として見てもらえるはずだった。やっと追いつけたと、そう思っていたのに、彼はいなくなっていた。挙句の果てには、必死に追いかけていた夢にさえ見放されている。
 頭の中の引き出しをバタバタと開け閉めして、言葉を探し始める。うまく当てはまるものがすぐに見つからないのは、語彙の貧弱さ故か、あるいは意図的に奥深くにしまいこんでいるからか。どちらにしろ、そう簡単に表現できるような心模様ではないらしい、と遠くの空をぼんやりと眺めた。第一、論理的にかつ分かりやすく説明できるような、迷いのない言葉がなければ、それは描写する意味がない……詩的な表現が似合わない、とはそういうことだと、茜は息を吐き出した。
(皮肉にしてはきつすぎるんじゃないの、これ)
 笑おうとして、泣きそうになった。すぐに袖で目元を強くこすって笑う。大丈夫、と言い聞かせる。風が吹き抜けて、白衣の裾をはためかせた。掴み所がなくて得体の知れない不安が体を軽くしてしまい、そのまま攫われてしまいそうな錯覚に陥る。
 いっそ、攫ってくれていいよ。

 そこまで考えて目を閉じると、現実が茜の手を取った。冷え冷えとした風に煽られながら、迷っている暇などなく、過ぎ去ったことに足止めを食らっている場合ではないのだ、と茜は気づく。
(過去の出来事として片付けるのは、ちょっと切ないけど)
 音を立てて歩み寄ってきた現実に助かった、と胸をなで下ろした。しかしそれは溜まった書類の山や上司の顔を思い出すことにも等しかった。ジャラジャラと耳障りな音が頭の中で再生されてしまい、顔を顰める。
「……あー、もう」
 考え出せばキリがない、というよりは放っておけば勝手に湯水のごとく溢れ出る響也に対する文句を甘い菓子と共に飲み込んだ。甘いはずなのに、苦い気がする。そのことにまた苛立って、つい顔が険しくなるのが自分でもすぐに分かった。これではわざわざ屋上まで出てきた意味がない、と無意識のうちに強ばっていた肩の力を抜いた。一瞬白衣が汚れてしまうだろうかとためらったが、追いかけてくる疲労感に抗うことはできず、手すりに背を向けて腰をおろした。
 一方で、そんな苛立ちとは対極にある感情にも気づいていた。響也が受け入れがたい存在であるのは、目指すものが違うからだ、と茜は信じきっていた。刑事は現場から、検事は法廷から、それぞれの真実に向かって歩む。
(それを教えてくれたのは──)
 だから、彼と出会ってからひたすら苛ついていた。茜が理想とする検事の在り方とは程遠い人物が、自分の上司として現れた。ひたむきであるとか、がむしゃらであるとか、そういったものが感じられなかった。それが茜には耐えられなかった。それは今でも変わらない。
(……はず、なんだけど)
 彼が辿り着こうとする場所は、結果的にいつも“真実”であったことが、茜を戸惑わせる。響也が度々足を運んでくる現場や、彼の戦いの場である法廷において、時折見せる射抜くような視線が思い出される。決して威圧的ではない。しかし、冷静さと、それ以上に隠しきれない熱意がその奥に迸っているのを何度も見てきた。その度に茜の当惑は深まっていった。彼の真実を追い求める姿勢は、自分を救ってくれ、そして憧れたあの人たちと同じ。それなのに、それでもやはり気に入らないという感情が勝る。
 いっそ彼を嫌いになる正当な理由でもあれば、どんなに楽だっただろうか。
(やっぱり、ジャラジャラよりヒラヒラよ……)
 それが、かりんとうを一つ口に入れて次を手に取るまでの間で茜に思いつける精一杯だった。

***

 かりんとうの行方を案じながら、いっそ鳥のおやつにでもなっていれば本望だ──そんなことを考えながら残業をこなし、帰り支度を始めた時だった。上司が待ち構えていたかのように茜に声をかけてきた。
「あ、宝月くん。これ、今日中に牙琉検事に届けといてくれる?」
 一番聞きたくない言葉と、分厚い書類の束に出迎えられてしまった。

 そろそろ帰れるだろうという時に、よりによって響也のオフィスまで届け物かつ報告だなんて、茜には耐えられなかった。普段でも乗り気になれるわけがないのだが、今日は余計に気が重かった。昼間の考え事が尾を引いているとしか思えない。仕事なんだから、と言い聞かせて、脳裏に浮かんでいた数分後に自分を出迎えるであろう響也の顔を思い切り振り払った。
(……腹立つ)
 彼のことで頭の領域を使ってしまっていること自体が、茜にとって屈辱と言って差し支えないほどの出来事である。つい足に力が入って、コンクリートを蹴る音が一段と大きくなった。こんな用事とっとと終わらせてしまわないと、精神的に安らがない。何か健康を害するようなことがあれば、医療費は全部牙琉検事に請求しよう、と茜は強く心に留めた。

「失礼します」
 部屋の主の返事を待たずに扉を開けた。真っ先に視界に飛び込んでくるのは、陽が沈んでライトに彩られ始めた街並みだった。壁一面が窓になっているおかげで、相変わらず無駄に眺めがよい。
「あれ……刑事クンじゃないか。こんな時間に珍しいね」
「私だって“こんな時間”に来る気はなかったです」
 仕方なく来てやったのだ、というオーラを全面に押し出しながら書類を響也に手渡す。一方の響也は、そんな茜の態度に慣れているのか受け流しているのか、いつもと変わらない笑顔を浮かべて書類の入った封筒を受け取った。
「……」
「……?」
 いつもならば、素っ気なく挨拶もそこそこに踵を返すところだった。響也もそのつもりで出迎えていたらしく、疑問符が瞳に浮かんでいるのがよく分かった。しかし、茜にしてみれば響也の様子は決していつもと同じ、とは言えるはずもなかった。仕事上、頻繁にこのオフィスに足を運んでいるため、否応なく部屋の様子が頭に入ってしまう。普段は少々乱雑といえどもそれなりに片付いているが、公判前となるとやたらと汚くなる。必要書類が埋まってしまっているのではないか、とひやひやすることも少なくない。そして、今現在まさにそういう状態なのであった。茜が把握している範囲で、響也の担当する公判は直近にはなかったはずである。
(……なんなのよ)
 それなのに、と茜は訝しげに響也を見つめた。
「なんで」
「ん?」
「……そんなに楽しそうなんですか」
 茜が部屋に入った時、響也が笑っていた気がしたのだ。それも、とても楽しそうに。
「え、嘘、ボクそんな顔してた?」
「ええ」
「……だとしたら、キミが来てくれたからかな」
「いつものことながらお上手ですね」
 何度目だろうか。そういった類の言葉を聞き流すのも、数え上げたら飽きてしまう。そもそも、茜に対してだけではなく色々な女性に似たようなことを言っているのだと考えると、ますます真剣に相手をする理由が見つからない。投げかけた疑問の答えをもらうのも忘れて、その場から去ろうと上司に頭を下げようとした茜を響也の言葉が遮る。
「別に冗談ってわけじゃないんだけど……まあ、キミがぼくのことをちゃんと見てくれているんだ、ってことがよく分かったよ」
「な……」
「普通そんなところに気づかないと思うけどな」
 特に苦手とする相手に対してはね、と付け足す。
「好きの反対は嫌いじゃなくて無関心、ってよく言うだろう? 刑事クンがボクに対する興味を失ってなかったのが嬉しくてさ」

 この人は本当に私が嫌がるところをことごとく突いてくるのだなあ、と茜はまるで他人事のように響也と対峙する自分のことを眺めていた。しかし、そういった決してプラスとは言えない感情を抱くこと自体が、響也に深く関わってしまっているという事実を指し示す。嫌ならば放っておけばいいだけの話なのに、それができていない。その混乱を言い当てられたようで、茜は無性に泣きたくなった。そして、いつも通り平然と笑顔を向けてくる響也に対する感情が、戸惑いから怒りへと姿を変えるのに時間はかからなかった。
「なんなんですか。そうやって私のことからかって楽しいですか。検事に私の何が分かるっていうんですか?」
 月並みな表現しかできていないことに気づいても、止められない。一度溢れ出した言葉はどんどんとその勢いを増していった。今までどれほどの思いをこの胸に溜めていたのか、と自分でも驚くほどだった。
「どうして? 検事の仕事にバンドに愛想の振り撒きに……そうやってやりたいことに埋まって自分の首絞めて、それでも笑っていられるなんて理解できない。私にはできない……しようとも思わない!」
 相手が上司であることを抜きにしても、随分失礼なことを言っていると分かっていながら、茜の言葉が切れることはなかった。実際は、ただ妬んでいるだけなのかもしれない。自分はやりたかったことができていない。言われたことをこなすだけでいっぱいいっぱいだ。一方で、響也は自らが望んだものに忙殺され、そしてその仕事に囲まれても、他人に笑顔を向ける余裕がある。それが羨ましい。
 本音の中の本音を抑えこむ程度の冷静さの欠片は、まだ残っているようだった。自分でもうまく表現できない本心を『腹立たしい』の一言で括ってしまえば、誰も損をせずに済む。
「やっと言ってくれたね」
「──!」
 しかし、茜が取り乱しながらも隠しているはずの言葉は、響也にとっては目の前に差し出されているのに等しかったらしい。
「刑事クンは機嫌が悪いっていうか、誰かに触れられたくないことを考えてる時は口調がわざとらしいほどに堅いからさ」
 嫌になるほど見抜かれる。
「ぼくはキミに何を言われようが気にしないよ。それこそ酷い言葉であっても、その指摘は正しいことが多いからね。でも、キミの場合それが自分自身にも向かっている」
 どこかで見覚えのある視線を投げかけられた。茜は法廷を思い出し、そこで出会った人々を思い出す。
「刑事クンは、もっと自分に優しくなってもいいんじゃない?」
 整理がつかずに散らばっていた矛盾が、どうにかして一つになろうと音を立てて動き始めているのを感じていた。自分の意志ではないはずなのに、と茜は少し焦る。その動揺の中でやっと絞り出せたのは、たった一言だった。
「それはただの甘え……そんなの、大嫌いよ」
「今の言葉、ぼくには『助けて』って聞こえるけど」
 そう言って優しく──それなりに長い時間を響也の下で過ごしてきた茜でさえ見たこともないほど優しく、彼は笑った。一瞬前までの射抜くような視線を微塵も感じさせないその笑顔に、こんな風に笑う人なのだな、と素直な感情がおぼろげに頭の中で漂うのを感じていた。
 そして、ぐらりと、自分自身が揺らいだ気がした。
 これまで響也に対する反抗心によって成り立っていた土台が、崩れ落ちようとしていた。茜が慌てて言葉を探していると、響也はまるでそんな彼女を見守るかのように頬杖をついて首を傾げた。何か間違っているだろうか、とでも言いたげな表情に、茜は視線の遣り場にすら困り果て、俯いた。二人の間を時間が流れていく。

「……あのさ、刑事クン」
 痺れを切らしたのだろうか。呆れたような、あるいは楽しそうな、そんな響也の呼びかけが聞こえてからの僅かな時間で自分は何をしていたのだろう、と茜は考える。椅子のキャスターが動いた。衣擦れの音が聞こえた。普段から苦手としているジャラジャラという金属音もそれに続いた。
 気づいた時には、視界が暗転していた。
 茜はしばらくの間、心が落ち着くようなぬくもりと状況の急激な変化をうまく繋げられずにいた。響也が椅子から立ち上がって、こちらに向かってきて、不意に手が伸びてきた……ような気がする。
(ああ、私は……)
「その強がりが、キミの一番苦手とする『甘える』こととなんら変わりないって、分かってる?」
 その言葉でハッとした。顔を上げようともがいてはみたものの、動けない。予想以上に強い力だった。そう、強い力で──
(抱きしめ、られてる)
「刑事クンがどんな過去を背負ってるかも、何を必死に追いかけて、何に対して揺れているかも知らないけどさ」
 振りほどこうと力をいれる茜をよそに、響也は普段向い合って話をするような口調で言葉を続ける。なぜこんなことになっているのか、茜には理解ができずに暴れることしかできなかった。それでも、茜が離れようとするほどに、響也はまるで赤子を宥めるかのように頭を軽く撫でた。
「迷ったり後ろに下がってみたり、そんな今のままのキミでいいと、ぼくは思う。ただ……なりふり構わず、取り憑かれたように一生懸命な刑事クンを見てると不安になるんだよね。もっと、人に頼ることを覚えなよ」
 まとまることのなかった破片が、響也の手で一つ一つ目の前に並べられていくような錯覚に襲われていた。決して口にすることなどなかったはずなのに、自分が“彼”の面影を辿っていることすら、響也にはお見通しだったというのか。
「どうして笑えるのか、って聞いたよね。ぼくだって結構いっぱいいっぱいさ……余裕なんかこれっぽっちもない」
 顔は見えずとも、微笑んだ気配が感じられた。
「でも、キミが相手だから笑えるんだ」
「──っ!」
 やっとの思いで響也の腕から逃れて彼を睨むと、真剣な眼差しが茜を見つめていた。なぜかそのまま真正面から直視できずに、視線を落とす。そして、茜は白衣を翻して響也のオフィスを後にした。響也も引き止めようという素振りを見せなかった。
(言い当てられた、あり得ない)
 人気のない廊下を走りながら、茜はこんがらがった思考を必死に整理しようとしていた。どうしてあんなことをしたのだろう。どうして後ろ手に隠していたはずの思い出を見抜かれたのだろう。どうして迷うことを肯定されたのだろう。疑問は続く。
 あんなに苦手で腹立たしくて敬遠したくて、気に入らない存在だったはずの上司──そのぬくもりが消えない。走って走って走って、吹き飛んでしまえばいいと思った。それでいいはずだった。
 それなのにどうして、満たされた気分になっているのだろう。

***

 部屋から出ていった茜を見送りながら、響也はしばらく動けずにいた。一体何に縛られているのか、と自分でも不思議なほどに、どうすることもできず立ち尽くしているしかなかった。ようやく力が抜けた時には、時計の針がどれほど進んでいただろうか。体を預けるように巨大なスピーカーにもたれかかると、いくつものギターを飾ったガラスケースに映る自分と目が合った。
「……嘘だろ」
 思わず苦笑いが零れる。いてはいけないはずの自分が、してはいけないはずの顔が紛れもなくそこにあったのだ。
(いい歳してこれは……ないな……)
 動揺が赤面として表れてしまっていた自分に、頭を抱えたくなった。長い長い溜息が抑えられない。らしくない、とはこういうことを言うのだろう。

 なぜそんなに楽しそうなのか、と彼女は言った。とても鋭い視線だった。しかし、その奥深くで揺らぐ思いに、触れてしまった。その瞬間に、目の前の勝ち気な彼女は嘘が嫌いで、嘘が得意なのだと理解した。自覚なく不安を押し隠しながら肩肘を張り、それでも心のざわめきに流されてしまいそうになっているだなんて、響也には背を向けることなどできなかった。誰かが手を伸ばさなければ、きっといつまでも嘘をつき続けるだろう。だから止められなかった。理由など、きっとそれだけだ。
(嫌というほど、分かるから)
 茜の問いがリフレインしはじめる。笑えているのは誰のおかげなのか、彼女は分かっているのだろうか、と小さいながらもデスクで存在感を漂わせる“証拠品”に視線を落とした。
 昼下がりのことだっただろうか。所用で警察署を訪れ、入り口に立つ警官の敬礼を横目にこれからの予定を確認しながら思考に溺れていると、軽い衝撃を後頭部に感じた。驚いて辺りを見回すと、茜の相棒である見慣れた和菓子が一つ、ころんと落ちていたのだった。あり得ないと思いつつも考えられるのは、響也が下にいることを知ってか知らずか茜がかりんとうを放り投げた、という状況だけである。
「本当にどこまでもぼくの想像を超えていくよね、刑事クンって」
 そして、その直感は外れていなかったのだろう。苛ついた様子で響也の前に現れた茜は、本音を直球でぶつけて、そして飛び出していった。彼女はあれが本心だったなどとはきっと認めない。しかし、そのキャッチボールにもならない言葉を吐き出した相手が自分であったことが、素直に嬉しかった。
「これでいいんだ」
 らしくなかろうがなんだろうが、それでよかった。きっと今まで以上に茜は自分を前にすると不機嫌になるのだろう。愚直だったり、必死だったり、だけど脆かったり──そうやって突っ走りがちな茜に頼ってもらうには、もう少し信頼を勝ち取らなければいけないな、と苦笑する。
(何もかもが、キミのせいで、キミのおかげさ)
 響也自身がそうであるように、茜にも自分が隣にいることで笑っていられるのだ、と思ってもらえる時がいつか来ることを願いながら、腰を上げた。
 響也にとっても、茜にとっても、何かを越えて踏み出した日が、時計の針が重なることで終わりを告げようとしていた。

***

 翌朝、出勤した響也の目に飛び込んできたのは『ごめんなさい』と走り書きされ、無造作にデスクに置かれたメモだった。素っ気ない、けれども茜らしかった。素直じゃないなあ、と呟いて椅子に腰掛けてペンを取る。女性らしく整った文字が並んだ下に『どういたしまして』とちぐはぐな返事を書き添えて、響也は笑った。

 曖昧な関係はどこまで続いていくのか。どちらが先に道を逸れるのか。二人がきちんと向き合うのは、もう少し先の話である。