いつもの朝だ。

 今朝はいつもより少し早く目が覚めたが、おかげでゆっくりと朝のティータイムを楽しむことができた。
 いつものように服を着替え、いつものように車のキーを取り、いつものように車に乗り込んでアクセルを踏む。目的地は仕事場。
 いつものように地下駐車場に車を停める。エントランスからエレベーターに乗ろうとして少し躊躇い、ほんの少しの勇気を振り絞って足を踏み入れる。
 何も考えまいとしている間に12階へ到着し、足早に狭い箱から脱出する。これもいつものこと。
 いつものように執務室の鍵を開け、鞄を置き、コートを掛け、椅子に腰を下ろす。
 とりあえず、いつもの茶葉を取って紅茶を淹れはじめる。
 すべてがいつも通り。何も変わらない、朝。

 こうして御剣が落ち着いてしばらくすると、部屋のドアがノックされていつもの声が聞こえてくる。
「失礼します」
「入りたまえ」
 いつものノックの後に扉が開かれ、彼女が姿を現す。部屋に入ると彼女は朝の挨拶をする。
「おはようございます、御剣検事。今日もよろしくお願いします」
 そうして、御剣はいつものようにティーカップに口をつけながら、彼女を迎える……
「うむ、おはよう。こちらこそ……」

 ……はずだった。

 今日も忙しくなる、頼んだぞ
 その言葉が出てこなかった。いつもの朝なら、ここまでがいつも通りの流れのはずなのに、何故だ。意図せず御剣は口をぽかん、と開けて出勤したばかりの事務官を見つめる。
「何ですか、そんなに見つめないでくださいよ。珍しいものでも見た顔しちゃって。あれ、もしかして何か付いてます? 今朝風が強かったからなあ……なんか飛ばされてきたのかな」
 当の本人はスーツをぽんぽんと手で払っている。

 いや、ちょっと待て、どうしてそうなるのだ。

(自分がその理由を一番よく分かっているはずではないのか……!)



違和感



「なごみ君」
「なんでしょう」
 何をぼーっとしているのですか、と言いながらなごみはいつも通りコートを壁のハンガーに掛けてから自分のデスクについて荷物を整理し始める。あーしまった、今日新発売のコンビニのケーキ買い忘れた。もうちょっと早く出て来ればよかったなあ……。お昼に御剣検事の分も一緒に買ってきますね。……とかなんとかぶつぶつ言っている。
 御剣にはもはやそんな呟きはどうでもよかった。

 ……これは、実に由々しき事態であった。
 御剣は密かに、なごみがよく出勤前にコンビニやらで買ってくるケーキやゼリーのデザート類を楽しみにしていた。近頃のコンビニはこんなところにまで力を入れているのか……、とスプーンやフォークでデザートを口に運びながら毎回感心する。ある意味で至福の時である。
 しかも、なごみが選んでくるものには外れがない。「買ってきましたよ!」と言って検事室の扉を開け、出勤して開口一番コンビニの袋を見せられると、口では「またか……君も物好きだな」とは言いながら、内心はまた新しい美味しさに出会えるということに胸を躍らせているのだ。
 なごみもなごみで、文句を言っておきながらきちんと買ってきたものを平らげてしまうのを見て、御剣はかなり甘いものが好きなのだな、と勝手に解釈していた。
 これは、二人の間の暗黙の了解のようなものだった。

 その御剣が、だ。
 コンビニの新作ケーキを買い忘れた、という事実をどうでもいい、と判断した。
 いつもならば、「そんなもの、いつだって買えるだろう」と意にも介さない振りをして、実際は落胆しているところである。しかもかなり。

「いつも」が「いつも」ではなくなっていっていることに、まだ二人とも気付かない。

「……いや、その……どうしたのだ」
「何がですか?」
 その返答に御剣は眉間に皺を寄せる。
(何が、ではないだろう……)
 どう考えても「どうした」と聞くだけの理由がそこにはあった。それもきちんと外面にあらわれた形で。
 更にそれは、先程なごみが口にした強風などの不可抗力によるものではないことも明らかだった。それが仮に不可抗力だったとしたら、超常現象か、あるいは訴えたら勝訴確実だろう。
 ……いや待て。超常現象など有り得ないと思ったが、実際自分の身近で超常現象としか言いようのないことが実際に起きている。亡き人物を現世に出現させることが正にそれだ……などと御剣は思案に耽る。

「あの」
「……む」
 今度はなごみが眉間に筋を作る番だった。
「人の問いかけにはきちんと答えてください」
「それは……すまない」
 全く別次元に飛んでいた思考を引き戻して、改めてなごみを眺める。彼女は本当に自分の身に起こったことを理解しているのだろうか? ……理解するも何も、どう考えても彼女の意志で引き起こされたとしか思えない、のだが。
 ……もう考えても埒が明かない。本人の口から引きずり出すしかない。御剣は、やっと核心に触れる。

「どうしたのだ……その、髪型は」

 何故だかたっぷり10秒以上の間が空いた。
 どちらも言葉を発することなく顔を見合わせたまま固まっている。先に動き出したのは御剣だった。
「な、何故黙るのだ!」
 その言葉になごみはびくりと肩を震わせ、ぼやっと空中を彷徨っていた焦点を御剣に合わせた。
「何故って言われましても……ねえ?」
「私に聞くな!」
「何で怒ってるんですか……」
「怒ってなどいない! ……と、とりあえず私の質問に答えてもらおうか」
 ひとつ咳払いをしてなごみを見遣る。彼女は右の人差し指で渦を描くように髪を絡ませ、毛先を弄んでいた。
「いや、その髪型はどうした、と聞かれても……私だって髪の毛くらい切りますよ?」
「切っただけではないだろう……今回は」
「そんなにパーマヘアって珍しいですか? 今どきはもう、流行と言ってもいいくらいですよ。……あ、私は別に流行に乗ったわけではないですから」
 やだなあ御剣検事ったら、また世間から取り残されちゃいますよ?
 なごみはそう言って笑った。彼女の指は、綺麗に巻かれた髪を梳いて流れていく。
「大体、何で御剣検事が私の髪型のことで驚いてるんですか? 自分の髪型に失敗したわけでもないのに」
「いや、私は君の髪型が失敗していると言ったのではないのだが……」
「それくらい分かってますよ」
 ははっ、と笑ってなごみは鞄から手鏡を出し、そこに映し出された自分と瓜二つの像を見つめた。
「……よく見ると、実は結構大胆に切っちゃったんだなあ」

 昨日までなごみの髪は胸の辺りまで綺麗に伸ばされたストレートヘアだった。
 この髪、割と自慢なんですよ。そう彼女は言っていたな……と御剣は過去の会話を思い出す。彼から見ても、いや誰が見ても、その髪は綺麗だった。
 それが、一夜にして肩に少し足りない程の長さまでバッサリと切られ、更に緩めのパーマまで当てられていた。何かあったと思うのが道理だろう。
 それでも、と御剣は思う。これはこれできちんと彼女に似合っている。見事なイメージチェンジだ。真宵君など目を丸くし、大声を上げて驚くのだろうな。

「似合っているではないか」
 そう言うと、なごみはぽかんとして御剣を見つめた。
「……意外、御剣検事がそういうこと言うなんて」
「私はそういうことを言われるのは心外だ」
 御剣は溜息をついて、冷えかかった紅茶に口をつける。なごみはそれを見て、ああ私も紅茶淹れようかな、と席を立つ。

「しかし……何故君は自分の髪形の変化に対して他人が驚くことに驚いているのだ? それが私にはよく分からない」
「いやあ、私の髪型なんか他人は気にしちゃいませんよ」
 ポットを片手にからりと彼女は笑って続けた。
「大学のときなんか、髪の毛をばっさり切ろうが何しようが、友達は何も言ってきませんでしたから。きっとスキンヘッドにしていったってリアクションはないでしょうね」
「それはないだろう……さすがに」
「どうですかねえ? あいつら、いかに毎日を楽しく過ごすかと、いかに単位を取得するか、っていうことしか考えてませんでしたから」
 まあ、私もその一人だったんですけど、となごみは笑う。笑い方が普段より幼く見えたのは、きっと彼女がかげがえのない時を、かげがえのない人たちと過ごした数年前のことを思い出したからなのだろう、と御剣は思う。
 ほんの少しだけ、そうやって笑えるような経験をしてきたこと、それが彼には羨ましく感じられた。

「……何故」
「今日何度目の『何故? なんで?』ですか、一体。先生を質問攻めにして授業を中断させるちょっと生意気な小学生みたいですよ」
 紅茶を飲みながらなごみが笑う。生意気、も小学生、も余計だ、と眉間に皺を増やして御剣は続ける。
「何故髪を切ったのだ?」
「……それこそなんでと言われてもなあ。髪の毛が増えてきて邪魔になってきたとか、色々あるんですよ、理由なんて」

 その言葉を聞いて御剣は咳払いをする。なごみは少し身構えた。まずいな、法廷で見る彼のオーラが出始めた。
「すまない、私の聞き方が悪かったようだ。質問を変えよう」
 まるで被告人席にでも立たされたようだ、となごみは苦笑した。
「何故髪の毛を切るだけでなくパーマまでもかけたのだ? 邪魔だという理由だけならばそこまでする必要はないだろう」
「そのときの気分、ですよ。どうせ久しぶりに短くするんだし、気分転換ついでにパーマでもかけてみようかなって」
 ほう? と御剣は眉を上げる。なごみには、正面に裁判長、右手に青いスーツのあいつ、後ろを振り返れば傍聴人がいるように思えてきた。私は仕事に来たんだ! と異議を申し立ててみようか。……ここまでくると部下を働かせる立場のはずの上司に却下されそうだが。
 そもそもたかがパーマごときで何を議論しているのだ。よく考えるとものすごく馬鹿馬鹿しいじゃないの、となごみは頭を抱えたくなった。
「君のような人物が気分転換、か……。私には勢いでパーマをかけるようには見えないがな」
 やれやれ、といった雰囲気で首を振る御剣。
「失恋したから髪を切る、というような世の女性たちではあるまい。君は美容院に行く日取りの段階から綿密な計画を立てて……」

 再び、時が止まる。

 なごみは御剣の言葉に目を丸くし、御剣はなごみのその態度に驚き、言葉を止めた。
 今度は、先に動いたのはなごみだった。
 ふ、と軽く息を吐いて毛先を弄っていた右手で前髪をかき上げる。これは髪を切っても変わらない彼女の癖だ、と御剣は思う。
「御剣検事は何も分かってないですね」
「……何が、だろうか」
「私だって、衝動的に世の女性と同じような行動を取る時だってあるんですよ」

 まるで、追い詰めて追い詰めてやっと真実を口にした証言台に立つ証人のように。
 先程までとは纏っている雰囲気が……そう、気づかないほどほんの少し、変わっていた。

「失恋……というほど大仰なものではないんです。そもそも、恋なんてしていない」
 なごみがぽつり、と語り始める。御剣は黙って耳を傾けることにした。
「高校に入学して初めて出会って、そこから卒業までの3年間ずっと傍にいた。楽しいときも辛いときも、なんだかんだで一緒に乗り越えてきた。私は彼のことをよく分かっていたし、彼もまた私のことを分かっていた」
 卒業するときは、冗談抜きで寂しかったんです。そう言ってなごみは苦笑した。
「一緒にいすぎて噂になるほどでした。でも、そういう関係には一切ならなかった」
「……うむ」
「そうやって高校を卒業して、大学ではお互いに別の道を歩んで」
 たまに連絡を取って飲んだりしているうちにさらに時が流れて……
「別の道だったはずが少しだけ交差していたんです」
 久しぶりに会った彼の隣には、見知らぬ子がいた。
 まだ幼さを残す、けれど強い光を宿した瞳。
「あれ、私この子に負けてるなって。会った瞬間に分かってしまいました」
 そう言って目を閉じると、彼女の髪に揺れている、綺麗な紫色の水晶が暗闇に浮かんでくる。
「まだ彼と出会って日は浅いのに、もう私と同じか、それ以上に彼を理解している」
 その事実が痛いほど伝わってきて、寂しいというか悔しいというか
「すごく複雑でした。まるで息子を嫁に取られたような」
「……君に息子はいないだろう」
 そう突っ込むと彼女はそうですね、と言って笑った。
「私は彼女が大好きです。可愛らしくて、けなげで、何よりも強い。見習わなければならないところがたくさんあるんです」
 はあ、と冷え切ってしまったであろう紅茶を飲み干して、続ける。
「そんな彼女が隣にいるあいつは、やっぱり幸せ者だな、と思ったらいてもたってもいられなくなって」
 指で髪を摘んで、離す。短くなったせいで、髪の毛が手からはらはらと零れていくような動きは生まれなかった。
「この髪形が完成していました」

 なごみは笑った。彼女は今日、実によく笑う。
「君は、その二人がよほど好きなのだな」
「よく分かりますね、その通りです。大好きなんですよ」
 御剣には、ようやくなごみの言う「あいつと彼女」が何を指しているのかが分かり始めていた。
 余計に、彼女の言葉が響いてくる。認めたくはないが、心の端になごみと同じ感情を彼らに抱いているのかもしれない、ということを自覚してしまいそうだった。

「私はあいつのことを好きというわけではない。だから、これは失恋じゃないんです。……つまり、この髪型も単なる気まぐれということですよ」
 今まで気づかなかっただけなのでは、ということは口にしなかった。……できなかった。
 最初に私だって失恋したから髪を切ったんです、と宣言したのも同然であるはずなのに、最後に失恋ではないのだと言い張る、その矛盾。
 決定的だった。

 それでも何も言えなかったのは、今まで一度も見たことがなかった、なごみの瞳が揺らぐ瞬間を目にしてしまった、ような気がしたからだった。

 いつも通りならば彼はここまで追究しなかった。
 いつも通りならば彼女はここまで口を開かなかった。
 ここまできて、二人はやっと今日はいつもと違う、ということに気づく。

「……今日は、私が買ってこよう」
「え?」
 御剣は椅子から立ち上がり、びっしりとファイルが詰め込まれた本棚の前に足を運ぶ。
「今朝君が買い忘れたという新しいデザートを、だ」
 なごみはきょとん、としていたが、その言葉の意味することにようやく気付いて笑みを漏らした。
 実際は、彼女は御剣がコンビニエンスストアでデザートを二人分レジに持っていき会計をする場面を想像して笑いを堪えられなくなっていただけなのだが、御剣はそんなことには気付かない。
(彼女は、実によく笑う)
 その事実に少しだけ満足しながら、自分の部下に告げる。
「そういうわけだ。今日は昼の休憩を楽しみにしながら仕事に勤しんでくれたまえ。

 今日も忙しくなる。頼んだぞ、なごみ君」

 今朝、いつも通りの一日を始めるために言うはずだった言葉をようやく伝え、やっと「いつも」の日常が始まる。普段よりスタートがだいぶ遅れてしまったようだが。
 御剣の言葉にはい、と頷くとなごみの髪が揺れた。
 その声を聞いて彼の意識はいつもの仕事へと吸い込まれていった。

 実は、御剣がコンビニにデザートを買いに行くということが「いつも」ではない、ということに二人は気付かない。
 結局「いつも」の一日へと戻ることなく、しかし二人はそれが「いつも」だと信じて今日を過ごす。
 それまでより少しだけお喋りになった二人が抱える、その妙な違和感がただの日常へと変化するのは、もう少し先の話。