カチカチカチ、と機械的な音を響かせて目の前に言葉を羅列していく。これが仕事であり、日課である。
自分の仕事もそうなのだが、もちろん上司というものが存在する訳で、そんな上司は非常に忙しい人物である。彼直属の部下である私は忙しい彼に頼まれ、代わって資料をまとめる。これが主な仕事であり、日課。
カチ……、とふと手を止めて目の前のモニターを凝視する。ゼロがふたつ並んだ文字列を見て、ふっと息を吐き出す。これは……。
「御剣検事」
「……何だろうか」
忙しい彼は、部下に仕事を回しても尚追いつかないほどの仕事を抱えている。もちろん部下と同じようにパソコンに向かい指を動かし、文字を追い、資料を捲る。
そんな一連の作業の手を止めて、部下の声に上司はモニターから視線を外す。
「おめでとうございます」
「……は?」
ファイル、その名は
「いや、ここはありがとうございます、の方がいいかな」
そう呟くと、御剣の眉間に皺が増えるのが視界の端に見えた。
「……失礼だが、如月君」
「なんでしょうか」
「話がまったく見えない。何がおめでとう、なのだ」
部下が何を言おうとしているのか見通せない御剣は、職業柄なのか、その「見通せない」ということに対して少々不機嫌になっているようだった。何もそこまで真相にこだわることはないのに。第一ここは法廷ではなく検事室だ、追究されても困る。
そんなご機嫌斜めな上司に、優秀な部下である事務官は事の真相を告げた。
「ファイル名、ですよ」
前言を撤回しよう。
どうやら今の発言は真相などとは程遠い、遠回しで曖昧な答えだったらしく、ただでさえ厳しい御剣の表情が一層険しくなっている。だからここは法廷じゃない。そう睨まないでくれ、とこぼしたくなる。
「ちょうど、100個目です」
「100個目?」
事務官・如月なごみは目の前に映し出された小さな「100」という数字を目で追い、焼き付けて、御剣に投影した。
「御剣検事が私に頼んだ仕事が、です」
デスクの上に構えられたパソコンは、もちろん仕事用だ。仕事には、自分の仕事と、上司から頼まれた仕事の2つがある。
パソコンは1つしかない。必然的にそこには2つが混在する。
初めは何の区別も付けず、ただファイルにつけたタイトルでそれが事務官としてのものか、検事のものかを判断していた。
しかし御剣は多忙だ。仕事も多い。そのうちタイトルだけでは何がなんだか分からなくなってきてしまった。……いや、私は優秀な事務官であるから、整理がつかなくて訳が分からなくなったから、なんてことはない。あくまでも判別しやすいようにするための予防策、である。
その区別の仕方が、本来のファイルのタイトルの後に、(御剣001)というようにナンバリングをつける、という簡便かつ分かりやすいものだった。
日々カウントアップしながら増えていき、私のパソコンの空き容量を奪っていく上司の仕事たち。それが今日、ついに一区切りの数字に達した。画面には、少し誇らしげに ××月××日裁判検察側資料(御剣100).doc という文字が躍っている。
「……というわけです」
「なるほど」
明らかに言葉とは裏腹に納得しきっていない。なんなのだこの上司は。
「……あの、何か」
「そこまではよく分かった。しかし、それがおめでとう、とありがとう、とどう繋がるのかさっぱり理解ができない」
最早完全に自分の仕事など忘れている。こんな部下の他愛もない一言に執着し、突き詰めようとする。ある意味検事として優秀すぎる。
「おめでとうございます、というのは……まあ、なんというか、キリがよくて素敵じゃないですか。あなたが当店が開店してからちょうど100人目のお客様です! ……みたいな、あんな感じです」
「……」
少し考え込んでいる。そんなに分かりにくい例えだっただろうか。
「……ま、まあいい。では、ありがとう、はどうなのだ?」
なごみはその言葉を聞き、にこっと笑って御剣を見つめた。
「それは、私と御剣検事の素敵な区切りなんです。たまには美味しいものでも奢ってもらおうかなあ、なんて」
「異議あり」
「チッ!」
くそ、引っかからなかった。
「大体、そこでなぜ私が食事を奢るという話になるのだ!」
「そりゃ、私がこれまで御剣検事の仕事を100個も担ってきたという、この偉大なる足跡を労っていただくためです」
「自分で言うことかそれは……」
呆れかえって溜め息をつく上司。しまったな、もうちょっと上手くすれば彼が食べ慣れているような高級料理にありつけたかもしれないのに……。
そんな邪な考えを見抜いたのか、御剣はふと、急に口の端を上げて笑顔を浮かべた。
(なんて分かりにくい笑顔だ)
なごみは逆に感心する。しかし、いくら分かりにくくても、それが感謝や喜びに裏付けられた楽しいものではなく、ひどく意地の悪い何かが背後に潜んでいることは明らかで……
「そうだ、如月君。ちょうどいい」
なんだかもう完全に楽しんでる。どうやっていじめてやろうか、という性根の悪さが見え隠れ……なんてものじゃない。すっかり顔を出している。少しくらいは隠してください。
「キリがいいのは素敵なことだ。君と私が共に働くようになって、100もの仕事を君に託し、それだけの月日を重ねてきたということだからな」
「え、ええ、まあ……」
「では、これまでのことを糧として」
新たな一歩を踏み出すこともまた、素敵なことだとは思わないかね?
そう言って赤いスーツの男は、今度ははっきり、ニヤリと笑った。
「100歩目まで歩んできた。今度は101歩目を刻んでもらおうではないか。新しいスタートなのだ、これもまためでたいことだぞ、如月君」
「鬼ー! 悪魔ー! 御剣検事の人でなし!」
「君だって分かっているのだろう、裁判も近い。仕事なら余るほどあるのだ」
「もちろん。そして御剣検事はそのくらいの仕事なら軽くやっつけられることも知っています」
これまで、100歩を隣で積み重ねてきた部下として。
「だから」
フランス料理でも、イタリア料理でも、なんでも……
「これが書類だ。目を通しておいてくれたまえ」
「ううう……」
食事時なのだ。一度考え出すと胃の動きが活発になってたまらない。そんなに忙しいのなら私の話なんかに手を止めてくれなければいいのに。ああ、ステーキ、ムニエル、ブルゴーニュ、冷製スープ……素敵な光を放って輝く料理たちが……手の届かないところへと離れていく……
***
「さて、目は通してくれただろうか」
数十分後、上司はそう部下に告げる。
「は、はあ……そりゃあ、頼まれた仕事ですから」
その言葉を聞くと、御剣は椅子から立ち上がり壁にかけてあるコートを取り腕を通す。
「お出かけですか?」
「君もだ、如月君」
「は?」
早くしたまえ、と御剣は自分の鞄を整え始める。完全に帰り支度だ。
「え、でも、頼まれた……」
「私は目を通せと言っただけだ」
フッ、と笑うと(今度は、意地悪な何かは見えてこなかった)同時に、御剣のデスクのパソコンの電源が落ちる音がした。
「何をしている、君の言うところの『美味しいもの』が食べたいのだろう?」
「え、え」
「さあ、早く支度をしたまえ」
さっきの全く取り合わない態度はいったいなんだったんだよ……! と思わず口から出そうになるほどだった。何か、この上司は何か企んでいるのか。美味しい餌で釣って今までの倍働かせようとしているとか、消費量の激しい紅茶葉を上司という立場を利用してついに私の自腹にさせようとしているとか……
そこまで考えて、なごみは考えることを放棄した。
そろそろ御剣の眉間の皺がマックスになりそうだった。
仕事のときに何度も乗っている赤いスポーツカー。今日は、行き先は現場ではない。御剣だけが知っている。
「失礼ですが、御剣検事」
「うむ」
「あんなに頑なに拒否していたのにどういう風の吹き回しでしょうか」
なごみの言葉を聞くと、御剣はフッと笑った。その雰囲気に、少し嫌なものを感じる。
「いや、気づいたのだよ。君はファイルをナンバリングして整理していると言った」
ええ、となごみは頷く。
「そのナンバリングだが、000から始まっているな?」
「そうです」
「つまり、それは今のところカウントできる上限は999、ということだ」
やはり、嫌な予感は、当たった。この人は……
「お、鬼……!」
「如月君が仕事熱心な事務官で何よりだ。こちらとしても非常に助かる」
「悪魔……」
「そもそも、区切りがいいというのであれば999まで到達して、限界を突破した1000の方がよりキリがいい」
「……人でなし!」
「その台詞は先程も聞いた」
赤信号で停止すると、御剣ははあ、とこれ見よがしに溜め息をつく。
「早く仕事を回せば、キリのいい数字もはやく巡ってきて美味しいものにありつける機会も増えるのだぞ。何をそんなに怒る必要がある」
「やっぱり餌で釣ろうとしてるんじゃないですか!」
「人聞きの悪いことを言わないでくれたまえ。私はただ君の今までの働きを労おうと思っているだけだ」
「後付け! 絶対後付けですよね!」
「何とでも言えばいい」
まだまだ言い足りない文句はあった。
しかし、これから自分を待ち受ける、想像の中でキラキラと輝きを放つ美味しそうな料理たちを思い浮かべて、なごみは口を閉じた。
興奮して浮かべていた背中をシートに預け、今日はこれからありつける、ずっと夢見ていた彼らに免じてこの底意地の悪い上司を許そう、と思った。