少しずつ少しずつ、育っていたらしい。

 気付かなければよかった。そうすればきっといつか枯れていた。
 ……いっそ、そうなればよかったのに。



水をあげる



 うだるような暑さだった。

 真宵は事務所応接室のソファに横になってだれていた。うら若き乙女と言える歳の真宵だが、その格好は人様に見せられたものではなかった。足を開いて投げ出し、装束の衿はがたがた。しかし、そうなってしまうほどの理由がそこには存在していた。
「あっついよーなるほどくーん」
「僕だって暑いよ。正直頭が働かない」
 今にも書類を投げ出しそうなひどい顔をして成歩堂が唸った。それを見た真宵はぷうっと頬を膨らませる。
「だったら修理出そうよ! こんな真夏にクーラーが壊れてるとか有り得ないよ、ほんと」
「そうしたいのはやまやまなんだけどさ……ほら、色々とあるじゃない」
「何が?」
「世の中は、何かサービスを受けようと思ったらそれ相応の対価が必要なんだ。等価交換というやつだね」
「……正直にそんな余裕ない、って言おうよ。余計悲しくなるから」
「ごめん、僕が悪かったよ」

 まさに、二人して汗だくという言葉がぴったり当てはまる。こんなに不快な空気はこの夏初めてだった。不幸なことに、今朝の天気予報で「今年一番の蒸し暑さでしょう」などと天気予報のお姉さんが言っていたということを思い出してしまった。
 外は暑いからといってクーラーの効かない室内に篭っているから逆に暑いのだと、働きの鈍った頭でやっと思い当たり、真宵は昼ご飯も兼ねてどこか人工的に冷やされた場所に移動しよう、と提案した。このままだと本当に茹で上がりかねない。
「うーん……ごめん、僕はもうちょっと頑張る」
「そんな汗だらだら流して、虚ろな目で言われても説得力ないよ」
「ううう……」
「体にも悪いしさあ、気分転換しようよ。気分転換!」
 ソファに寝転がったまま、右手の人差し指を天井に突きつけて高らかに宣告する。しかしそんな気合にも成歩堂は乗ってこようとせず、目を通していた書類をぱさりと机に置いて顎を机に乗せた。
「じゃあ、真宵ちゃん一人で行ってきなよ。それかもう帰ってもいいよ。あとは僕一人でも大丈夫だし、本当に君の言う通りここにいると体壊しそうだし」
「あのさ、なるほどくん」
 真宵はようやく頭を上げ、体を捻ってデスクにへたっている成歩堂の方を向いた。
「真宵ちゃんはこの事務所の影の所長なんだよ? それにね、あたしは弁護士じゃないの。唯一の弁護士に倒れられたらエアコンの修理代が払えないとかそういう次元の話じゃなくなっちゃうんだから!」
「……前半はともかくとして、後半はすごく説得力があったよ」

 でもさ、と成歩堂はやっとの思いで立ち上がった。流れた汗の分だけ水分を補給しないと、倒れる倒れないの話が洒落にならなくなってきてしまう。給湯室の棚からコップを2つ取り出し、こちらは正常に働いてくれている冷蔵庫から冷えた麦茶のボトルを取り出した。それを見た真宵が、ああ水出し麦茶のティーバッグ買ってこないと、と呟く。
「あ、それなら僕が買ってきてもいいんだけど……とにかくさ、確かに一応の稼ぎ頭として僕が倒れても困るけど、それ以上に真宵ちゃんに倒れられるとそれはそれで困るんだよ」
「……なんで?」
 あまりにも唐突で、真宵は目を丸くした。成歩堂はコップに麦茶を注ぎながら苦笑いを浮かべた。
「真宵ちゃんには無茶させっぱなしだからさ」

 覚えてるかい? と成歩堂は続ける。
 僕たちが御剣を救った……と、少なくとも僕は信じていたあのDL-6号事件に絡んだ一連の事件の時。千尋さんに頼ろうとしてばっかりで僕は何も見えてなかった。そのせいで真宵ちゃんに無理をさせてしまったこと、忘れられないんだ。その後もそうだ。僕の傍にいたせいで誘拐されてしまったし。
 もうそういうのは嫌だから、と成歩堂は笑った。法廷で見せるふてぶてしさは、どこにも感じられなかった。

「ちょっと話が壮大だよ、なるほどくん」
 部屋が暑くて倒れちゃうよ、って話からここまで膨らませられるなんてある意味すごいね、と感心すると、少し困ったような顔をした。
「ごめんごめん。ま、とにかく君には無理させたくないってこと」
「だったら」
 近寄ってきた成歩堂から麦茶の入ったコップを受け取りながら、真宵は彼を見つめた。
「なおさら外に行こう。涼しいとこにお昼食べに行こうよ! なるほどくんが行かないならあたしだって行かないからね」
「はは……負けるなあ、君には」
 相変わらず苦笑する成歩堂は、自分のコップの中身をぐいと飲み干すと、あー生き返るー、と言葉で表現しづらい声を出した。
「おじさんくさい」
「悪かったな」
 ふん、と鼻を鳴らして、そしてようやく普通に笑って
「分かった。キリのいいところまで片付けるから、それまで待っててくれるかな?」
 そう告げた。やっと折れたか、と真宵は溜息をついた。
「仕方ないなあ。あんまり遅いと溶けちゃうからね!」
「はいはい」

「それはそうと」
 成歩堂を待つ間にコップを空にした真宵は、ふと尋ねる。ん? と顔は上げずに意識だけこちらに向いたのが分かった。
「今度の弁護はどんな事件なの? なんだかやけに熱心だよね」
「ああ、えーとね、実の姉を殺してしまったという容疑がかけられた弟さんの弁護だよ。話を聞いてる限りじゃ無実だと思うんだけどなあ……」
「……」
 よっぽど集中しているのか、不思議な沈黙にも気付かずに資料へ目を通し続ける。その目は至って真剣で、真宵でさえ少したじろいでしまうほどだった。


 真宵は思う。
 今まで少しずつ感じていたことではあるが、この人は、他人に対する思い入れが強すぎる部分があるのだ。それは傍から見ればただの自己犠牲に過ぎないのに、彼はそれがその人を救うと信じてやまない。
 最初に出会った時はミツルギ検事、今はあたし……なのかな。
 たとえ今回の事件で、殺人の罪に問われている弟を救うことができたとして、あたしが直接救われるわけではない。でも、彼はそれを愚直にどこかで繋がると信じている。
 その真っ直ぐな瞳に、時折恐ろしささえ覚えることがある。

 でも、あたしはこの状況をどう思っているの?
 そう問うて、少なからず悪い気はしていないことに気付く。誰かにこんなにも自分のことを考えてもらえる、信じてもらえる。そのことがこんなにも心強いのだと、成歩堂に出会って初めて知った。
 だからあたしは、いつまでもこの人の隣で、くだらない話をしながら大笑いできればいいのに、と思うのだ。そうすることで彼に恩返しができれば、と。

 そこまで考えて、ぼんやりと否定の感情が浮かんできた。
 何か違う、彼は自分にとってそれだけじゃない存在なのだと、それだけじゃない存在であって欲しいのだと自覚してしまいそうになった。
 そしてその事実に戸惑う自分がいた。

 心の底で、それだけじゃ物足りないの、と叫びだしそうになっている自分がいることも、その時ようやく理解した。

 この人はいつだってあたしのことを必死で守ろうとしてくれている。そう、自惚れていいのだろうか。


 もう見て見ぬふりはできないらしい。
 これ以上育てようとは思わない。だけど気付いてしまったからには枯れて欲しいとも思わない。
 それならば、今度は少しずつ少しずつ水をあげていければいい。

 そうすれば花が咲こうが咲くまいが、きっと後悔はしない。

「なるほどくん!」
「なんだよ、真宵ちゃん」
「……ううん、なんでもないの」
 今度買う麦茶は煮出しと水出しどっちがいいかな、と聞こうとしたけれど、その質問はひどく場違いな気がして、やめた。妙な間をごまかすようにいつもの青いスーツを脱ぎ放ってYシャツ一枚の彼に向かってにっこりと笑ってみせると、変なの、と呟いて再び書類に視線を戻していく。早く終わらせてね、と言うとうん、としっかりとした返事が返ってきた。そんな成歩堂の背中を見て、真宵は目を閉じた。

 こんな面倒くさい感情、気付かなければ、よかったな