どうして真夏の太陽はこうも元気なんだろう?
 少し、やる気を出しすぎだと思う。

 設定温度を控えめに設定しているエアコンは、その機能を十分に果たしているとはとても言いがたい。
 ただデスクで書類を書いているぼくですらじんわりと汗がにじむのに、額に汗してちょこまかと動き回りながら雑務をしている真宵ちゃんは、少しでも涼感を得ようと長い髪の毛をまとめて結い上げて、うなじをあらわにしていた。数本のおくれ毛が、白いうなじに貼りついていて、妙に色っぽかった。
 棚にファイルを片づけていた彼女は、手元のファイルがなくなるとパタパタと足音を響かせて扉の向こうに消え、すぐにアイスコーヒーを入れて戻って来た。デスクに置いた拍子に、グラスの中で氷がコロンと爽やかな音を立てて溶けた。

「お。ありがと」

 可愛く首を傾げて笑うと、彼女はぼくの正面に椅子を持って来て座り、麦茶を飲み干した。顎をあげたせいで見えた喉元の白さも、うなじと同じように眩かった。

「ひゃー、暑いねぇ」
「あ……ああ、暑いね……」

 装束の胸元を引っ張ってパタパタと風を送り込みながら、真宵ちゃんは言った。
 ぼくは適当な相槌を打ちながら、緩んだ装束から見える胸元に思わず生唾を呑み込んだ。角度によってはふくらみの付け根辺りまで見えそうだったが、彼女は気付いていないようだ。気付かれないように、チラリ、またチラリと見てしまう。さり気なく背後に回り込んで覗き込めばもっと際どいところまで……なんて。

 どうしたんだろう。
 最近のぼくは、ちょっとおかしいのかもしれない。
 年下の助手が妙に女の子らしく見えて、気になって気になって仕方がない。
 これも夏のせい……なのか?

 ぼんやりとそんなことを思いながら、手持ち無沙汰になってワイドショーを見ていた彼女に声をかけた。

「真宵ちゃん、申し訳ないんだけど郵便局と文房具屋にお使い頼まれてくれない?」
「アイス買っても良い?」
「一個だけ、な」
「……ケチ」
「一個で十分だろ?」
「えー! 暑い中を歩くのに、あたしが溶けちゃったらどうするの?」
「その時は掻き集めて冷凍庫で固めてやるから大丈夫だろ」
「…………」
「……じゃあ、二個までね。ついでにぼくのも買って来て」
「いつものバニラ?」
「うん、よろしく」
「なるほどくんは本当、牛好きだよねえ」

 ……勝手に牛好きにされてしまった。

 渋々出て行く彼女の後ろ姿を見送る。
 捨て台詞が牛好き呼ばわりというのが真宵ちゃんらしい。
 窓辺に立って眼下を見下ろすと、ちょうどビルの出入り口から彼女が出て来たところだった。夕方も4時を過ぎて日が傾き始めているのに、まだまだ外は暑そうだ。眩しそうに太陽を見上げた彼女がこちらを振り向いた。ニコッと笑って手を振るので振り返すと、彼女は満足そうに笑ってタタッと駆け出した。ぼくにはこの暑さの中を走る勇気も元気もないのに。

 節電のために控え目に設定されてるとはいえ、自分だけエアコンの効いた室内にいることに罪悪感を感じながら、彼女が戻って来るまでにやれる所までやってしまおうと、デスクの書類に向きあった。



無敵な彼女



 いつの間にか、窓から射す光が茜色に変わっていた。

「うーん」と背伸びをしてからコキコキと首を鳴らし、仕上げに肩と腰を回して凝りをほぐす。集中するとついつい時間の感覚を無くしてしまう。昔からの悪い癖だ。腕時計の針たちが、あと数分で縦一直線に並ぼうとしていた。

(そういえば真宵ちゃんどうしただろう? 出て行ってからだいぶ経つけど……)
 空気の入れ替えを兼ねて窓を全開にして身を乗り出すと、大通りを挟んで向かい側の歩道に真宵ちゃんの姿があった。
 郵便局と文房具屋など目と鼻の先なのに、少し時間がかかりすぎじゃないか。おおかたコンビニにでも立ち寄って、トノサマンの新製品を買うか買うまいか迷っていたんだろうけど。
(真宵ちゃんならありえるな)

 頬杖をついて、彼女を待つ。手前の横断歩道を渡れば、事務所の入るビルはすぐそこだ。ぼくが覗いていることにいつ気が付くだろうかと、声をかけずに黙って見守ることにした。
 車道の信号が黄色から赤に変わり、数秒後、今度は真宵ちゃんのいる横断歩道の信号が青になった。周囲からほんのわずかに遅れて真宵ちゃんも渡り始める。少しずつ近づいて来る彼女を見ていたぼくは、不意に違和感を覚えて顔を上げた。

(なんだか元気ないんじゃないか……?)
 軽やかに出かけて行った時とは正反対に、とぼとぼと歩いて来るその足取りが心なしか重そうだった。足元を見ているらしく、一向にこちらに気付く気配がない。

 ──真宵ちゃんはうつむきがちの顔をとうとう上げなかった。

 応接室のソファーにどっかりと腰かけて彼女を待った。ドアに付けたウインドウチャイムが、窓からの風でかすかに揺れている。
 三ヶ月ほど前、近くの雑貨屋でねだられて買ってあげたウインドウチャイム。中央で揺れるモチーフがイルカのものと天使のものとどちらにするかで散々迷い、結局イルカを手にして
「イルカは幸運のシンボルだからね。こんなのがあったら女性の依頼人もぐ・ぐーんと増えるよ!」
……なんて言ってたっけ。
 本当は自分が欲しいだけの癖に、事務所をダシにするのだからたまらない。嬉しそうな笑顔でそんなことを言ったって、説得力なんてないのになあ。

 シャラララ……と、ドアにつけたウインドチャイムが涼やかな音を奏でて待ち人の帰りを教えてくれた。

「おかえり」
「……ただいま」

 明らかに不機嫌だった。ぼくとは目も合わせず、仏頂面のままスタスタとぼくの向かいに腰かける。

「えっと、真宵ちゃん?」
「なに?」

 顔色をうかがいながら恐る恐る声をかけたぼくに、彼女は間髪いれずに即答した。

「ああ……、ええっと……。……アイス、は……?」
「……落とした」
「え。」
「正確に言うと、ぶちまけた」
「はあ?」
「道路にぶちまけちゃったから、ないの」

 ふぅ……と長いため息をつきながら彼女は言葉少なに話す。
 ぼくの頭に疑問符がポンポンポンとリズミカルに浮かぶ。

「なに? どういうこと?」

 ふくれっつらのまま、彼女は語り出した。
 この二時間弱の間に起こったことを。




 ******



 ぼくの入れた麦茶をグビグビと一気に飲み下すと、彼女の表情がほんの少し和らいだ。気持ちを落ち着けるようにホッと短く吐息をこぼすと、真宵ちゃんは重たげに口を開いた。

「あのね、最初に郵便局で用事済ませて文房具屋に行ったのね」
「うん」
「そしたら近くの文房具屋がお休みでね、ちょいと遠くの店まで行ったわけよ」
「うん……」
「予定よりも遠くに行くわけだし、途中で内緒でアイス買っちゃおうかなーと思ったんだけど、なるほどくんは仕事してるしなあと思って我慢したんだよ」
「……」

 優しいなあ、真宵ちゃんは。自分の方が暑い思いをしてるのに。こっそり食べちゃえばわからなかったのに。いや、お釣りでわかるけど、それくらいはぼくだって目をつぶるのに……。
 暑い中をぼくのために歩いている彼女を想像したら、細い縫い針で刺されたようにチクリと胸が痛んだ。

「それで文房具屋で買い物して、帰りにいつものコンビニに寄ったんだ」

 いつもの、とは、仕事が終わったあと、帰りがけに二人で寄るコンビニのことだ。事務所から200メートルくらい離れた場所にある。そこでアイスを買ったり、寒くなったら中華まんを買って、近くの公園で食べてから帰る。それがぼく達の日課だった。

「そこでさ、なんと、映画に誘われちゃったんだよ!」
「……は?」

 思わず口をあんぐり開けてしまった。
 真宵ちゃんは胸の前で手を打ち、口元をほころばせた。

「夕方から夜にかけて、ハタチくらいの男の店員さんがいるじゃない」
「あ……ああ」

 ぼくにも心当たりがあった。よくレジにいる、ぼくより少し背が低い、茶髪の大学生風の男を言っているのだろう。
(ふーん。なるほどねえ……)
 今時の外見のわりに愛想は悪くないし、いつもテキパキ仕事をしていた印象がある。ただ、ぼく一人の時にテンションが低めだったのはそういうこと、か。

「で、どうしたの?」
「トノサマンで良いなら考えますって言ったけど」
「……ふーん。良いんだ?」

 何故か、胸の中がざわめいた。
 普通、いつも男を連れて来る女の子に声かけるか? それとも赤の他人から見ると兄と妹にしか見えてないってコトなのか……? そもそも彼女も彼女だ。そこは断わるところなんじゃないか。なんでまんざらでもなさそうなんだよ……。
 嬉しそうに、ほっぺをピンク色に染めている彼女を見ているうちに、ぼくの心をチクチク刺していた針はいつの間にか杭になっていた。コンビニの店員が、ぼくの息の根を止めようとぐいぐい心臓を打っている気がする。

 ちょっと不機嫌になったぼくに気付く気配もなく、彼女は話を続けた。

「でね、ここからなんだよ! コンビニ出て、さあ帰ろうって事務所に戻ろうとしたらね、なんと今度は痴漢だよ!」
「……え。ち、痴漢!?」

 彼女の口から飛び出した思いがけない言葉にぼくは凍りついた。何故か得意気に身を乗り出す彼女とは対照的に、まるで被害者のようにうろたえるぼく。なにかが違う気がしないでもない。
 彼女は心底悔しそうに、歯噛みしそうな勢いで吐き捨てた。

「そう。前から来た自転車のおじさんに、すれ違い際に胸触られたよ……鷲掴みだよ……」
「ええええええっ! (なんてこった……! 胸、だって……!?)」

(鷲掴み出来る程度にはあるんだな、あの胸……)
 怒りで煮えくり返りそうな頭の片隅でそんな不謹慎なことを考えてしまったぼくは、思わず彼女の胸元を見つめてしまいそうになって、慌てて目を逸らした。危うく自分が痴漢になるところだった。

「痴漢なんて初めてだったから、あたしビックリしちゃって」
「……ああ、それでアイス落としちゃったんだ?」

 そりゃそうだよな。そんなことがあったら誰だって驚いて、アイスのひとつやふたつ、落としてしまうだろう。
 気にしないでいいよ、と慰めの言葉を言いかけたぼくより一瞬早く、彼女が口を開いた。

「いんや。甘いよ、なるほどくん」
「……え?」
「あたし、もう、あったまに来ちゃって。思わず下駄投げちゃった」
「げ、下駄? 下駄投げたの?」
「うん。そしたらビックリ、後頭部に直撃しておじさん引っくりかえっちゃった」
「そりゃそうだろう……」
「下駄拾いに行ったついでに、一発、真宵ちゃんキックをお見舞いしといたよ」
「……念のために聞くけど……どこに?」
「決まってるじゃない。股間だよ!」
「…………」
「アイスはその時に落としちゃったんだ……」
「そ、そう……」

 あの硬い下駄を後頭部に食らった上、急所にキックをお見舞いされた痴漢に、怒りと不快感、そして「ざまあみろ」と思うと同時に、ほんの少しだけ同情を禁じ得ない。だが今のぼくにはそれよりも大切なことがあった。

「で。ケガはなかったの?」
「うん、大丈夫。あたしはそんなにヤワじゃないから」
「ヤワとかそういう問題じゃないんだけどな」
「いやー、見せてあげたかったよ。なるほどくんにも、あたしの大遠投……! メジャーリーグからスカウトが来るんじゃないかって位、圧倒的なスピードとコントロールだったんだから!」
「元気がなかったのは痴漢のせいか」
「……もう、なるほどくんはつくづく甘いなあ……」
「違うのかよ」

 真宵ちゃんは、どこかの検事のように大げさに肩をすくめて首を振った。

「痴漢なんてやっつけたんだからあたしの敵じゃないでしょ。問題はアイスだよ、アイス」
「そっちかよ!」
「あたしのが二個と、なるほどくんので一個。三個もダメになっちゃったんだよ? そっちの方がよっぽど大問題だよ……。下駄もちょっと傷付いちゃったし……」

 ガックリと肩を落とす。
 ぼくがきつく言い聞かせたから、代わりのアイスも買って来なかったらしい。うつむきがちだったのは、傷ついてしまったお気に入りの下駄が気になったからだそうだ。

 彼女の武勇伝を聞きながら、ぼくの胸の中にモヤのようなものが広がって行った。
 今日はたまたま下駄が相手の頭にヒットしたおかげで天誅を加えることが出来たけど、これを繰り返されるのは正直に言うと困る。トラブルの種になるようなことをしたのは相手だけど、世の中には逆ギレする奴らだっているのに。この子はわざわざ自分から危険に巻きこまれに行ったと自覚してるんだろうか。もちろん泣き寝入りしろなんて言ってるんじゃない。嫌なコトは嫌だと言えなければいけない。けど、ぼくが言いたいのはそうじゃなくて……

「──真宵ちゃん。……アイスなんていくらでも買えば良いよ」
「え、本当?」
「それより。深追いなんてしたらダメだよ。相手が刃物でも持ってたらどうすんの?」
「あ……そう、だよね」

 彼女は初めて気付いたようだった。ちょっと驚いたように目を丸くして、それから目を伏せた。

「ただでさえキミは小柄なんだから、ちょっと引っ張られれば、簡単に暗がりに引きずり込まれちゃうよ? ……それがどういうコトか、子どもじゃないんだから、キミもわかるだろう……?」
「…………はい」
「いつもいつもぼくが助けてあげられるとは限らないんだからな。自重してくれよ」
「……はい。ごめんなさい……」

 真宵ちゃんは恥じ入るように身を小さくした。髪の向こうに見え隠れする耳が、カーッと真っ赤になって行くのがわかる。しゅんとして、とうとう涙ぐんでしまった彼女に、ぼくの心も痛んだ。そして、同時にホッと安堵した。もしも彼女になにかあったら、後悔してもしきれない。今日だってぼくがお使いなんて頼まなければ、彼女は痴漢になんて遭わなかったのに。そう思えば、反撃なんて無茶をしたにも関わらず、無事に帰って来てくれて良かったと心の底から思う。

 天真爛漫な部分は彼女の長所だ。
 だけど、言い返れば無邪気とも無防備とも言えるそれは、悪く言えば隙だらけということだ。もう少し自分を守れるようにならないと。真宵ちゃんに必要なのは、攻撃力よりも防御力。そして危険を回避する努力だ。
 そのためには自分の非力さを、そして異性にどう見えているのかを知らなけらばならないんだ。前から言おうと言おうと思いつつチャンスに恵まれずにいたけど、今日の出来事は良い機会だったのかもしれない。

 しょんぼりしている彼女を諭しながら、ぼくはいつからか自分の中に芽生えていた新しい感情とようやく向き合おうとしていた。
 最近のぼくがおかしかったのは、夏のせいなんかじゃない。
 真宵ちゃんを女の子として見ていたからなのだ……と。

「……さ。今日はもう帰ろうか」

 しょげ返っている真宵ちゃんの頭を撫でる。
 暑い中を歩き回ってくれたせいで、いつもサラサラの前髪は汗で濡れていた。頬と鼻の頭も、日に焼けて少し赤くなっていた。

「アイス、買うんだろ?」

 神妙な顔をしている真宵ちゃんの手を取った。
 華奢だけど柔らかな手。

 このまま。
 この手を繋いだまま、あのコンビニに行こうとしているぼくは、意地が悪いのだろうか。
 あの若い店員は、なんて思うだろう?

 ──この調子じゃ、うかうか一人では歩かせられないなあ。

 繋いだ右手に力を込める。
 オレンジ色から藍色に移り変わってゆく空を眺めながら、ぼくは思っていた。