「こども祭り?」
「そう、こども祭り、です!」

 そう言って、みぬきはにこにこしながらプリントを王泥喜に差し出した。



天高く兎肥ゆる秋



 事務所の窓から見える通りの街路樹の葉も色づき始めた頃だった。例年よりは暖かいものの、やはり気温は日を追うごとに下がっており、秋の訪れを感じさせた。
(なんか……)
 そんな街の様子を室内から見下ろしながら王泥喜はふと考える。弁護士として初めて法廷に立ってから何故だか波乱含みで、慌しいままこの事務所に腰を落ち着け、今に至る。激しい環境の変化が続いたせいか、今までなんだかんだ言って忙しいというか、余裕がなかったのだと改めて思う。
(もう、秋だったのか)
 どうりで出勤の時は寒いし、道路に落ち葉が多くなっているわけだ。間に合わせで凌いでいたけれどそろそろ本格的に衣替えしなきゃ、とか、朝の掃除は念入りにしなきゃダメだな、とか、ぼんやりと季節の移ろいに思いを馳せる。
「……早い、よなあ」
 思わず声に出してしまう。自分の気付かないところで季節が動いていたのではなく、その動きに自分が気付けなかっただけ、なのである。本当にいっぱいいっぱいなんだな、と苦笑した。

「何が早いんですか?」
「うわっ……! ……て、みぬきちゃんか。驚かさないでくれよ」
「勝手に驚いたのはオドロキさんですっ」
 みぬきは名前に負けないくらいの驚き方ですねえ、などと笑っている。まったくこの子は……と溜息をつく。
「どうしたの、こんなに朝早く。今日は日曜日だよね?」
「みぬきにはお休みも何もありません! ご飯作ったり魔術の修行したり、常に忙しいんです」
 後者は仰々しい言葉を使っているけれど手品の練習だろ、というツッコミは喉の手前で押しとどめた。しかし、料理や掃除はみぬきに頼っている、という部分はまったくもって否定ができない。返答に窮していると、みぬきはそんな王泥喜の様子を意に介することもなく、一枚の白い紙を差し出してきた。
「早起きの本当の目的はこれです」
「何、これ?」
「みぬきの学校の、こども祭りの案内ですよ」
「こども祭り?」
「そう、こども祭り、です!」

 そう言ってみぬきは、王泥喜の目の前にプリントを掲げた。さらっと目を通すと、次の日曜日にみぬきの通っている中学校で文化祭のような、各クラスが出し物をしたり、店(といっても食品を扱うものはないようだが)を開いたりする行事を行う、ということが書いてあった。
「このプリント、オドロキさんにあげます」
「え」
「何ですか、嫌そうな声出して」
「い、いやいや、違うって」
 思いがけない申し出に間抜けな声を出すと、みぬきが怪訝そうな顔で覗き込んでくる。慌てて首を横に振ると、王泥喜は呟いた。
「つまりさ、それって」
「?」
「俺のこと、このお祭りに誘ってる?」
「それ以外の何があるというんですか」
 さらりと言ってのけるみぬきとは対照的に、王泥喜はぽかんと口を開ける。
「成歩堂さんは?」
「もちろん誘いました、みぬきのパパですから」
「……そりゃそうだよな」
「もしかして、パパと一緒に来るの嫌ですか?」
「いや、そういうわけじゃないんだけど……」

 考え込んでいると、みぬきはいきなり「あーっ!」と大声を出した。
「な、なんだよ、今度は本気で驚いたぞ」
「あ、ごめんなさい。お友達とお祭りのための買い出しに行く約束してるんでした!」
 言うや否やばったばったと必要な荷物をかき集め、鞄へと放り込んでいくみぬきを見ながら、王泥喜はお昼は? 何時ごろ帰るの? と尋ねつつ自分のコーヒーカップを取りにキッチンへと向かう。みぬきはその問いかけに動き回りながらも「いりません、食べてきます!」「夕方には帰ります!」と律儀に答え、支度を完璧に終えたらしく通用口へと駆けていった。

 水をやかんに入れて火にかけ、みぬきを見送るために王泥喜も玄関へ向かった。
「……結局早起きは出かける為だったんだね」
 失敗しちゃったみたいだけど、と靴を履いているみぬきに後ろから声をかける。みぬきはその言葉に振り返ってえへへ、と笑う。立ち上がってつま先でとんとんと軽く地面を叩くと、ドアノブに手をかけ、王泥喜に顔だけ振り返る。
「それもあるけど、忙しそうな王泥喜さんを捕まえるために早起きしたんですから、絶対来てくださいね!」
 約束ですよ! と大声で叫びながら玄関から慌てて外に飛び出していくみぬきの後ろ姿を見ながら、魔術の修行はどうしたんだよ、と思う一方、言いようのない気持ちを抱え、とっくに閉じられたドアの前にぼうっと佇んでいた。

「お湯、沸いてるみたいだけど」
「うわああっ!」
「何をそんなに驚いてるんだい?」
 我に返って勢いよく振り返ると、そこには寝起きと思われる成歩堂が(いつものことだが)気だるそうに立っていた。
「成歩堂さんがいきなり声かけてくるから……いや、もうなんでもないです」
 つい数分前にみぬきと似たようなやり取りをしたことを思い出し、最後まで言わずに口を閉じたが、その直後、成歩堂の言葉とキッチンから聞こえてくる火を消してくれと催促する高音に気付き、大声を上げて踵を返した。
「……朝なんだし、もうちょっと静かにしてくれないかなあ」
 おかげで目が覚めちゃったじゃないか、と大きなあくびを一つして、成歩堂も王泥喜の後に続いた。

 危うく中から熱湯が溢れ返るところだったやかんを救出し、僕の分もよろしく、という有無を言わさない無言の視線に負けて二人分のコーヒーを淹れ、王泥喜はやっと落ち着いて食卓の椅子に腰をかけた。
「それにしても、朝からぼーっとして、何かあったのかい?」
 恋煩い以外の話なら聞くよ、と机を挟んで王泥喜の前に座る成歩堂がさして興味もなさそうに問いかける。どうでもいいなら聞かなきゃいいのに、と内心溜息をつくが、ここでわざわざ会話を途切れさせることもないと王泥喜は口を開いた。
「……みぬきちゃんが、俺のこと学校のこども祭りに誘ってくれたんです」
「ああ、来週の日曜のアレか」
「はい」
「……」
「……」
「……そこで黙られると、さすがの僕も対処できないんだけど」
 成歩堂の言葉にどこか一点を難しい顔をして見つめていた王泥喜ははっとして、困ったように笑った。その表情に、成歩堂は珍しく驚く。あれ、この子のこんな顔、初めて見たかもしれない。
「俺、何で誘われたんですかね?」
 少し躊躇った後に、王泥喜は口を開いた。
「こういうの、俺の通っていた小学校でもやってましたけど。文化祭とかと違って父母参観みたいな色合いが強いと思うんです。それなのに何で俺に来てくれ、なんて言ったのかと思って……」
 俺ぜんぜん関係ないし、と付け加えるように呟くと、成歩堂はわざとらしく首をかしげた。
「何で、ってそりゃ……社交辞令じゃない?」
「……なんか話す相手を間違えたような気がします」
 気のせいじゃないかな、と成歩堂が笑うと、王泥喜は少しむっとしたように眉を顰めた。何にむっとしたのかは、自分でも分からなかったけれど。

「もういいです。さーて、仕事でもしようかな」
 カップを勢いよく傾けて残っていたコーヒーを一気に飲み干すと、王泥喜は席を立って一つ大きな伸びをした。そうだ、何を考えているんだ。社交辞令、というのは間違ってなんかいない。自分の住む家にいきなりやってきた同居人に礼儀として、あるいは義務として自分の予定を教えただけなのだろう。そこに他意などなく、みぬきにとっては息をすることと同じ、何も考えなくても行うことが出来るのだ。そう考えると、何故だかもやもやとした気分になって王泥喜は頭を振った。
(意味が分からない)
 何でこんなことで自分の気持ちが振り回されなければいけないのだ、と、掴めない感情の揺れを断ち切るように頬を両手でぱしん、と叩いた。

「じゃあ、俺出かけてきますから。お昼頃には戻るんで」
 昼食を作っておいてくれると嬉しい、と伝えようとして、相手が成歩堂だということを思い出す。こんなものぐさな人が作ってくれるわけがない、と苦笑いを零した。
「いってらっしゃい……あ、それと」
 上着を取りに部屋を出ようとしていた王泥喜は、その言葉に振り返る。
「多分、行けば分かるよ」
「……?」
「みぬきが何故、君を誘ったか、がね」
 そう言ってふっと笑うと、成歩堂も立ち上がりコーヒーカップをシンクにことり、と置いた。再びあくびを噛み締めると、じゃあ僕はもう一眠りするから、と寝室へと消えていった。そんな一連の動きを王泥喜はただただ立ち尽くして見ているだけだった。

「……くそ、一体何なんだよ」
 悪態をついてみたものの、それを受け取ってくれる人はおらず、まるで自分へ向かって突き刺さってくるようだった。



***



 秋晴れ、と呼ぶに相応しい快晴だった。

 学区があるのだから当たり前のことではあるが、目的地はほとんど皆が同じようだった。父母と思われる夫婦や、妹と思しき小さな女の子を連れた家族連れ、カメラの調整に余念がない父親……風景は様々だった。その中に、30代と20代の男連れが一組。さすがの王泥喜も場違いだったのではないかと、きょろきょろと周りを見回す。
「観念した方がいいよ、オドロキくん」
「……ですよね」
 一つ息をついて顔を上げると、一際賑やかな声が聞こえてくる。目的地はもう、すぐ目の前に迫ってきていた。
 あれから散々悩み、やっぱり断ろうかというところまで考えたが、結局成歩堂の言葉が頭から離れず、さらにみぬきにも念を押されてしまったため、今に至る。こうなってしまった以上、楽しめばいいのだと王泥喜は思う。そうだ、純粋にみぬきちゃんが楽しんでいる姿を見て、自分も楽しめればいいのだ、と。

 一歩足を踏み入れれば、そこは普段何かを学ぶ場であるということを忘れさせるような、ある種の異空間を作り出していた。それを目の当たりにして、王泥喜は自分の学生時代を思い出す。ああ、この無駄にわくわくと胸が躍る感じ……きっと、みぬきちゃんも同じなんだろうなあ。
「へえ、今の学生たちって凝ったことするんだね」
「同感です」
 校庭を横切りながら、成歩堂も王泥喜も首を色々な方向に向けて周りを眺める。校庭では父兄の有志たちが、学生が行えない食品を扱う屋台を出している。上を向けば校庭に面した窓ガラスがテープや色紙で綺麗に彩られていた。とりあえず立ち止まり、みぬきから事前に貰っていたパンフレットを開き、二人は顔をつき合わせて彼女の所属する教室を探す。みぬきはクラスで休憩室をやるのだと言っていた。売るわけではないけど、お茶やちょっとしたお菓子を出すんです! という楽しそうな声を思い出す。
「休憩室っていう割には校舎の一番上にあるな……たどり着く前にへとへとになっちゃうじゃないか」
「おっさんみたいな言い方しないでください」
「君に比べたら立派なおっさんだけどね、ははっ」
「……」
 楽しそうに笑いながら文句を零す成歩堂に呆れながら、こっちですよ、と美味しそうな匂いに釣られてふらっと人ごみに消えそうになっていた人物のパーカーを掴んで歩き出す。後ろで「焼きそば食べたいんだけどなあ」という呟きが聞こえたが、とりあえずは聞こえないふりをしておいた。これじゃあどっちが保護者だか分からないじゃないか、と苦笑した。

「あ、パパ! オドロキさん!」
 あんなことを言っておきながら、王泥喜もみぬきのいる教室まで階段を登ってくるのに疲れきっていた。二人を認識したらしいみぬきの明るい声が聞こえてきた時は、思わず深い溜息をついていた。
「よかった、来てくれたんですね、オドロキさん!」
 来てくれないかと思ってました! とにこにこ笑っている。その笑顔を見ると、あれだけ悩んでいたのが馬鹿みたいに思えてくる。
「さあさあ、とりあえずお好きな場所に座ってくつろいじゃってください! 今お茶持ってきますからね」
 そう言って小走りでついたての裏へと駆けていくみぬきの姿を眺めていると、王泥喜よりもはるかに疲れ果てた顔をした成歩堂が早く座ろうよ、と目で訴えていた。はいはい、と笑って手近にあった椅子を引いて腰を下ろした。隣に座った成歩堂はぐったりとしている。
「いくらなんでも疲れすぎですよ」
「君もじきに分かるよ、30を過ぎると体が言うことをきかなくなるっていうのがどういうことか、ね」

 成歩堂がはあ、と深い息をつくと同時に、みぬきがお茶とクッキーを持って戻ってきた。
「もうっ、パパだらしないよ! もうちょっとしゃきっとしようよ!」
「ごめんごめん。もう少ししたら回復するよ……多分」
 ぷんすかと怒っているみぬきに、王泥喜は尋ねた。
「ねえ、みぬきちゃん。ちょっと聞いてもいい?」
「なんですか?」
「このクラスで休憩室をやろうって言い出したのって、もしかして……」
「はい、みぬきですよ」
 えっへん、とみぬきは胸を張った。
「日頃体を動かさない父兄の人たちが来るんだから、私たちのクラスがある校舎の最上階まで来るのはきっと辛いと思ったんです。つまりその階に休憩室があれば皆さん寄っていってくれる、というわけです!」
「……」
「それに、物を売るわけじゃないからお金の管理もしなくていいですし、私たちもてなす側は来てくれた人と楽しくお話すればいいんですから。お茶とお菓子だけなら準備も楽、という何とも完璧な計画の下に生まれたんですよ、この休憩室は」
 さらりと言ってのけるみぬきに、この子は一体こんな恐ろしい知恵をどこでつけてきたのだと頭を抱えたくなった。実際自分たちもその計画にまんまと引っかかっているわけで……うら若き中学生とは思えないほどの(悪)知恵だ。
「みぬきはすごいなあ。さすが僕の娘だ」
 呑気に笑っている成歩堂を見て、異議あり、と叫びだしそうになるのをやっとのところで押さえつけた。本当にこの親子は……!

 何から突っ込もうかと思案していると、女子生徒たちの明るい声が飛んできた。
「あれ、みぬきちゃん、その人たちは? 知り合い?」
 その声にくるりと振り返り、みぬきは楽しそうな声で答えた。
「うんっ、みぬきのパパと……」

 そこまできて、王泥喜はふと、何故自分がここに来ることを渋っていたのか、ようやくその原因に思い当たり、そしてすぐに逃げ出したくなった。

 そう、自分はみぬきにとって「何」なんだろう、と。

 そもそもが血の繋がっていない親子の二人暮しだった。それが滞りなく続いていたはずであり、そこにいきなり転がり込んだのが王泥喜である。みぬきにとって成歩堂は面倒を見てくれている父親だ。では、自分は? ただの居候? 仕事仲間?
 きっと、その答えを聞きたくなくて──

「お兄ちゃん、だよ!」

「若いお父さんだね! 羨ましいなー」
「うん、中身はおじさんだけどね」
「酷いこと言うなあ、みぬき」
「お兄さんも格好いいね! 学生さん?」
「ううん、こう見えてもね……弁護士なんだよ!」
「えーっ、すごいすごい!」

 すぐ近くで繰り広げられている会話が、まるでスクリーンの向こうで展開している物語のようだった。それほど、現実味がない響きを持って「お兄ちゃん」という言葉がやっと王泥喜の胸に着地した。
「あの、弁護士になるのって大変ですか?」
 ぼうっとしていると、みぬきの友達と思われる女の子の言葉が自分に向けられているものだと気付き、慌てて姿勢を正す。
「い、いや……だ、ダイジョーブだよ! 俺でもなれるくらいだからさ!」
「何か不安ですね」
「確かに」
「そこの親子は黙っとけ!」

 何から逃げ出したかったのか、何を恐れていたのか。少し馬鹿らしくなって、とても安心した。

 みぬきの同級生とも軽く打ち解けることができ、和やかに話は進んでいた。そんな時、みぬきがふと時計を見上げ「あ」と小さく呟いた。
「みんな、そろそろ時間だよ!」
 その一声をきっかけに、ぞろぞろと移動を始める生徒たち。何事かと驚いていると、みぬきはふふっ、と笑った。
「この後体育館で、クラスのみんなで劇をやるんです! もちろん見に来てくれますよね?」
 みぬきが王子様役なんです! レアですよレア! と自信たっぷりに宣言する。何だかもう、突っ込みどころがありすぎて見失ってしまった感じだ、と王泥喜は苦笑した。

「嬉しそうだね、オドロキくん」
 体育館へと向かう途中、唐突に成歩堂が話しかけてきた。
「え」
「もう丸分かり」
「……恥ずかしいです」
「だから言っただろ、行ってみれば分かるって」
 何で悩んでたかは知らないけど、と付け加える。
「みぬきは、君のことを家族と思っている。だから彼女にとってこの場に君を誘うことに何の疑問もなかったんだよ」
「……そう、だといいんですけど」
「あれだけ直接的な表現をしてたのにまだ疑うんだ」
 意地の悪い笑みを浮かべる成歩堂に、何で悩んでるか知らないとか嘘つくなよな、と心の中で舌を出す。
「まあ、人はそうやって嬉しいことを吸収していって、大きくなるんだよ。その点で言えば、君は今日だいぶ大きくなったってことだ」


 そうやって今のうちにどんどんと大きくなって、いずれは一人で生きていく準備をするんだ。温かく見守ってくれる存在がいて、自身に喜びをもたらしてくれる存在がいて、頼ってくれる存在がいて、競い合える存在がいて……誰か他人がもたらしてくれる喜びや幸福を自分の糧とできるのならば、きっと強くなれるはず……いや、強くなれるのだ。

 それは、誰よりも自分が知っている。
 だから、願わくば彼の周りにもそのような存在が多くあるように、そして自分もその手助けができるように。成歩堂は口には出さずに、そう伝える。いつか、彼が自分で気付いてくれるように、と。


「大きくなるとそのツノも育つかな?」
「そ だ ち ま せ ん !」

 秋。
 それは人それぞれ芸術の秋であり、スポーツの秋であり、食欲の秋であり。
 しかし、自分にとっては人と繋がることの喜びを知る秋だ、と王泥喜は思う。いつの日か、それこそ伸びるはずのないツノが成長するくらい、隣で笑っている親子のように喜びを得ることで大きくなれたら。それが本望かもしれない、と、聞かれることが恥ずかしくて小さく小さく呟いた。