※名前変換はありませんが、オリジナル要素・夢小説要素を含んでおります。ご注意ください。








* * *








 もういいかい

 まあだだよ

 もういいかい

 そして、耳を澄ませても何も聞こえなくなる。ああ、またあなたは俺を置いてどこか遠くへ行ってしまったのだ、と理解して問い続ける。

 ねえ、もういいかい?



かくれんぼ



 珍しくも何もない、静かな朝だった。
 保護者という意味においては事務所の一応の主である成歩堂は、(これは彼にしては珍しく)王泥喜が事務所に来たのと入れ違いに出かけていった。ただ、彼が事務所にいたところでソファで寝ているか、冷蔵庫から紫色の液体が入った瓶を引っ張り出してきてそれを呷っているか、である。寧ろ気を使ったりちょっかいを出されることもなくなったということで、集中して勉強や仕事もできるだろう、などと考えていた。
 一方娘のみぬきは、父親が自分よりも早く家を出て行ったことに「明日は季節外れの真夏日ですねえ、オドロキさん」と一言感想を漏らして学校へと向かっていった。
(時々恐ろしいというか、何て淡白な娘なんだ)
 苦笑しながらみぬきを見送り、玄関先でうーんと一つ背伸びをした。
「とりあえず掃除でもするか」
 幸い、王泥喜には今日中にどうしても片付けなければならない仕事はなかった。
(……つまり、こういう状況ってあんまり幸いとは言えないわけだけど)
 簡単に言ってしまえば、今取り組むべき依頼がないということであり、それが弁護士にとっていいものかどうかは分からない……いやいいわけないよな、などとふと湧いた不安を誤魔化すように呟いて、朝食に使った食器類を流しに放り込んだ。

 シンクと向き合う前にぐるりと事務所を見回すと、どんどんと乱雑さが増してきていることが手に取るように分かった。
 一番事務所にいる時間が長いはずの成歩堂がトイレ以外の場所を掃除しない、というよりはそこ以外は掃除をするものではないだろう、というように思っているのではないかと疑いたくなるほど手をつけないため、片付かないのは当たり前だった。
 そうなると積極的に掃除をしてくれるのはみぬきなのだが、彼女はまだ学生で、学生なりの勤めがある。さすがに毎回毎回彼女に任せるわけにはいかないと思っていた。
 だから、今日は掃除にもってこいの日なのだ。暇で丁度よいくらいだ。
「たまには暇でもいいさ。悩んで仕事が来るわけでもないし」
 きっとそのうち依頼くらいひとつやふたつ舞い込んでくるさ、と蛇口を捻った。静かな部屋に水の流れる音だけが響いていく。

 静かだな、と王泥喜は思う。
 こんな風に静かだと認識できるのは、何かの音がそこに存在している時なのだと考える。完全な無音状態にいる時、人はきっとそれが静かだとは気付かない。普段は気にもしない音が聞こえて初めて、自分が静けさの中にいることが分かるのだ。そう、今の自分のように。

 ただし、その音が必要以上に大きければ、静けさを認識するきっかけを通り越して静寂を打ち破ってしまう。

「こんにちはーっ」
「げ」
 思わず泡だらけの手が止まる。本来ならこの事務所に来訪者があることを喜ばなければならないのだが、王泥喜にはその人物が仕事の依頼にやってきたのではないということが嫌というほど分かっていた。

 そんなことを考えている間に、声の主はもう廊下からひょこっと顔を覗かせていた。
「あれ、オドロキくん一人?」
「応対もしていないのに勝手に奥まで入ってこないでくださいよ、キョウさん。それに時間帯で言えばまだこんにちは、じゃなくておはよう、です」
「そうだね、ごめんごめん」
 そう言ってにこにこと人懐こい笑顔を浮かべた。遠回しにこんな朝早くから来てくれるな、と言ったつもりだったのだがまったく伝わっていないようだった。絶対悪いなんて思ってないだろ……と呆れて、いつの間にか自分の横に立っているキョウを見上げた。
「洗い物なら手伝ってあげるよ?」
「大丈夫です」
「あはは、お得意の『大丈夫』だね!」
「……」

 自分でも認めたくはないが、俺はこの人を前にするとまったく太刀打ちができなくなるのだ、と王泥喜は頭を抱えたくなった。



***



「しっかし汚いねえ、この部屋。なるほどうさん、ぜんぜん片付けないんだね」
「それはまったく否定ができません」

 結局半ば無理やりスポンジを奪われ、二人並んで洗い物をする羽目になってしまい、王泥喜は彼女から泡のついた食器を受け取ってすすぎながら尋ねる。
「何しに来たんですか、一体」
「え……うーん、暇だったからね。ここに来れば誰かいるかなあ、って」
「誰もいなかったら?」
「お茶でも淹れてくつろごうかな、と」
「あんたはここの住人か!」
「えー、違うの?」
「違うだろ!」
 一体どういう思考ならそういうように思えるのだ、と呆れながら溜息をつくと、そんな王泥喜の態度が不満とでも言いたげに口を尖らせた。この仕草だけ見ていると自分よりも年上だとは思えない、と思う。
「だって、なるほどうさんがいつでも来ていいよ、って言ってくれたよ?」
「……それはそうですけど」
 そういうのを拡大解釈って言うんじゃないんですか、と言いかけて、やめる。きっと言ったところで無駄だろう、という思いと、あまりにも楽しそうに話すのでこれ以上水を差すのは気が引ける、という思いがないまぜになって言葉が出てこなかった。

 キョウはこの事務所の近所に住んでいる女性だ。ある日みぬきがスーパーへ買い物へ行った時、彼女にしては珍しく財布を事務所に置いてきてしまうというミスを犯した(みぬき曰く、最近では一番の汚点です、だそうだ)。そのことに気付いた時にはすでにレジ打ちが始まってしまっていて、どうすることもできずに慌てていたみぬきに、たまたま後ろに並んでいたキョウが気付いてお金を貸してくれたのだった。そんな彼女をみぬきが事務所まで引っ張ってきて、貸してもらったお金を返すとともに、お礼を兼ねた小さな宴会が開かれた。
 それ以来、キョウはなんでも事務所に顔を出すようになり、今日のように掃除をしてくれることもあれば簡単に食事を作ってくれることもある。家事、という分野に圧倒的に人手が足りていなかった三人にとってはまさに降って湧いた幸運と言ってよかった。
 ただし、王泥喜は最初に彼女に会ってからやり込められっぱなしだった。主に成歩堂が余計なことをキョウに吹き込んだからなのだが、彼女は「今日はだいじょーぶって叫ばないの?」だの「そのツノ、着脱式だってなるほどうさんが教えてくれたんだよ!」だの、顔を合わせればいちいち王泥喜をからかってくるようになった。王泥喜はそれに必死で対抗するのだが、最後は結局キョウにうまく丸め込まれてしまい何も言えなくなってしまっていた。

 そんなことが続き、王泥喜は彼女に妙な苦手意識を抱くようになった。昔から人見知りだけはしなかった自分が、キョウを相手にするときだけはうまい言葉が見つからないのだ。だからこそ、今日も二人きりになるのが嫌だったのだ。みぬきや、特に成歩堂がいれば会話に困ることもなかった。

 さらにもう一つ、彼には彼女が苦手な理由があった。
「本当のところは」
「え?」
「ここに来た本当の理由は、オドロキくんが困ってるんじゃないかなー、って思ったからだよ」
「……は?」
 ぽかん、としているとキョウは流れっぱなしになっていた水を止めた。
「だって、この前ここに来た時にオドロキくんがなんとなく疲れてる感じだったから。どうせまた下らないことで悩んでるのかな、って思ってさ。ついでにお昼ご飯でも作ってあげようかと」
 オドロキくんカツサンド好きでしょ? と、にこりと笑ってこちらを見るキョウに、下らないとは何だ! と言いかけていた口が閉じてしまった。

 これだからこの人は嫌なのだ。
 自分でも気付かないようなことを目ざとく見つけて、それを突きつけてくる。たとえそれが見たくないものだとしても、だ。彼女は、真実から逃げることを許してくれないのだ。
 それは王泥喜だけではなく、みぬきに対しても同じだった。王泥喜には教えてくれなかったが、初めて彼女と出会った日、初対面にもかかわらずみぬきが財布を家に忘れた理由を言い当ててしまった。これには成歩堂も驚き、「すごいなあ、キミ」と素直に感心していたことを覚えている。

「なんで……」
「ん? なーに?」
「なんで、キョウさんはそんなに俺たちのことを気にかけてくれるんですか? 関係ない赤の他人じゃないですか」
 そう尋ねると彼女は少し考えてから、笑う。
「それは、君もみぬきちゃんも、なるほどうさんの大切な人だから、かな」

 そして、彼女は他人のことには聡いくせに、自分の本心はなかなか見せない。その笑顔の後ろに、気付かれないように隠してしまうのだ。王泥喜にはそれが癪だった。自分はこんなにも相手のことを見抜いているのに、俺には何も見せようとはしてくれないのだ、と。
 王泥喜はそんなキョウと一緒にいると、まるで終わりのないかくれんぼをしているかのように感じられた。鬼になってみたものの、探しても探しても見つからない、そしてその内、探すことさえも叶わなくなってきているような、そんな深い迷路に迷い込んでしまったかのようだった。

(それは多分……あんまり認めたくはないけれど)
 俺が彼女に対して特別な感情を抱いているからなのだろうな、と王泥喜は思う。
 苦手意識があるくせに、と自分でも呆れてしまう。それでも、キョウが成歩堂の名前を出して楽しそうに話す姿を見ると居た堪れない気持ちになることから目を逸らすことができなかった。

「ああ、なるほどうさんがいなくて残念だなあ。私の作ったカツサンド食べて欲しかったな」
 ほらまた、あんたはあの人のことを考えてる。
「そんなに食べて欲しいなら、ラップかけて冷蔵庫入れておけばいいじゃないですか。多分喜びますよ」
 そう伝えるとキョウは嬉しそうに笑って、そうだよね、と言った。

 そんな彼女の顔を見て、王泥喜はキョウに対して自分でも気付かないうちに、初めて躊躇いも何もなく言葉を投げかけていた。
「キョウさんって、成歩堂さんのこと好きなんですか?」

 一瞬、キョウは動きを止めて目を丸くした。しかし、すぐにいつもの笑顔になって王泥喜に体ごと向き直った。
「どうしてそう思うの?」
「そりゃあ……見てれば分かりますよ。キョウさん、なるほどうさんの話をしてる時はすごく楽しそうです」
 その言葉を聞いて、キョウはあははと笑う。王泥喜は、きっと彼女のことだ、そんなことないよ、と優しく首を横に振るのだろうと思っていた。
 それは問いかけを肯定したことになるのだから、と目を閉じる。馬鹿だな、俺……何で自分の首絞めてるんだろう。

「そうだよ。よく分かるね、オドロキくん」

 まったく予期していなかった答えが返ってきたのは、その数秒後だった。あまりのことに王泥喜は何も言えずに固まってしまっていた。そんな彼を見て、そんなにびっくりすること? とやはり笑っている。……そんな、まさか。
 呆然としていたその時だ。

 ただの勘違いでなければ……いや、もうこの感覚を勘違いでは済ませられないのは自分が一番よく分かっていた。幾度となく感じてきた妙な違和感。それは微かに、しかし王泥喜にだけははっきりと、その存在を主張していた。
 その違和感の元である左手を、ふと見つめる。
 キョウの言葉は本心ではないのだと、腕輪が伝えてきている。
 本当なら分かるはずもない、知る由もない、そんな誰かの心の動き。果たしてそれを理解してしまうのはいいことなのか、許されないことなのか。何度も自問してきた。こんな才能、なければよかったとさえ思ったこともある。

 そこまで考えて、キョウに対して苦手意識を抱くのは自分とは違うからだ、と気付く。
 この腕輪が人の心の動きを教えてくれることで、自分はそれを読み取ることができる。しかしキョウは違う。純粋に人の心が分かるのだろう。王泥喜にはそれが羨ましかった。道具に頼らず、こんなにも俺のことを理解してしまう。
 それでも自分の気持ちは頑なに見せようとしない。その理由は分からないけれど、彼女は今初めて自分の前で隙を見せてくれた。それは王泥喜にとって何よりも願い、欲していたことだった。きっとまだ俺にもみぬきちゃんにも、そして成歩堂さんにでさえ見せない心があるのだ、と王泥喜は思う。自分の内側を曝け出せない、ある意味でとても脆い、そんな彼女の傍にいたい、今度はこっちが理解してあげたいのだ、と初めて自分でも手にとって分かるように強く感じた。

 やっと、スタートラインに立たせてくれる、そんな気がした。

 もういいかい、と問いかけて「まだだよ」と逃げられる……そんな結果が分かりきっていたから、無駄に一秒を長く数えてみたり、九まで数えて一に戻ってみたり。こうやって、時間は十分経っているのにもかかわらずずっと目を伏せたままだった。きっと……いや、きっと、もなにもない、勇んで探そうとしたのに見つけられなかった時の痛みに耐える自信がなかった、それだけの話だ。
 そんな自分が今更目を開けて、決して見つかることのないように長い時間をかけて探し出したであろう場所へと隠れたあなたを探してもいいのだろうか。だとしたら、何も見ないようにと瞼を閉じ続けたことで闇に慣れてしまったこの瞳は、きっと外界の思いがけない明るさに負けて涙を流すのだろう。
 それでも、どこか遠くから「もういいよ」と、その場から動くことを許す声が聞こえた気がする。たとえ自惚れだとしても、それは確かに、鬼が止めていた足を動かすために必要な合言葉なのだから。

「……絶対に」

 もう遠慮はしない、容赦もしない。すぐにその痕跡を辿って見つけてみせる──隠れたって無駄なんだ。その痕跡の欠片は、予期せぬ形で手に入ってしまったのだ。
 彼女が一瞬見せた心の揺れ、それに王泥喜は気付くことができた。たとえ腕輪のおかげだとしても、これが俺の武器なのだと、金色に光るそれを右手で撫でた。

「俺、頑張りますから」
「え?」
「成歩堂さんに褒められるくらい、綺麗に掃除しましょうよ。俺も頑張ります」
「うん、そうだね。……ありがとう」
 じゃあとりあえずいらないものから片付けようか、とキョウが言う。力仕事なら任せてください、と王泥喜が胸を張る。
 そんな、ちょっと賑やかな朝の時間。



***



「春だね、みぬき」
「すごく季節外れだけど、確かに春だね」

 それぞれ外出先から帰ってきた親子は、食卓を囲んでいた。テーブルの上にはラップのかけられた皿。ラップの内側には水滴がこれでもかというようにへばりついている。成歩堂がそれを剥がすと、湯気とともにカツサンドが姿を現した。皿の傍らには、「冷蔵庫にカツサンドがあります。温めて食べてください」のメモ書き。
「とりあえず食べようよ、パパ。これ以上眺めてても目の毒だよ」
「それ、目の前に置かれながらお預けをくらっている美味しそうなカツサンドとあの状況、どっちのこと言ってる?」
「そりゃあ、両方だよ」
 さらりと言ってのけるみぬきに成歩堂は誰に似たのかなあ、と苦笑する。そして、視線をソファへと投げた。無駄なものが片付けられて随分とすっきりした部屋の中心に置かれたソファ、そこで王泥喜とキョウが二人揃って、並んで座ったまま仲良く寝息を立てている。
「あそこ、僕の定位置なんだけどな」
「残念だね、パパ」
「いや、起こしてもいいんだけどさ……」
 さすがにあそこまで仲良くされるとちょっとね、と薄い笑いを浮かべる。
「だから目の毒って言ったじゃない」
「ははは、厳しいな」
 午後のおやつを食べながら眠ってしまったらしく、ローテーブルの上には紅茶のカップとクッキーが出されたままになっていた。
「まあ、お掃除してくれたみたいだし、いろんな意味でみぬきは嬉しいよ!」
「うん、そうだね」
「春だね」
「うん、春だ」
 二人が起きたらどうやってからかってやろうか、とカツサンドを頬張りながら親子の会話は続く。

 王泥喜が目を覚まし、意地悪な光を宿した4つの瞳と視線がぶつかるのは、そのしばらく後のことだった。