『――よく、考えてみるんだな』

 ハッとして窓の外を見ると、空は不穏な黒い雲に覆われていた。風も吹き荒れているようで、刑事の運転する古い車が車体ごと吹き飛ばされてしまいそうなほどだった。これからの天気を案じて顔を顰めていると、車は徐行して横付けを始めた。
「着いたッスよ」
「ご苦労」
 降りた途端に強い風に体を攫われそうになりながらも、ドアに華奢な体を預けて体勢を立て直す。ヒールがコンクリートとぶつかり合い、カツンと小気味いい音を立てた。
「まったく……相変わらず貧相な車ね。体中が痛いわ」
「あいすまねッス……」
「乗り心地の良い高級車が買えるほどの給料をもらえるように、せいぜい頑張ることね」
 はっ、という刑事の威勢のいい返事を聞きながら、冥は足早に目的地へと向かう。狭い車内に押し込められての移動や刑事に投げる厭味、すべてがいつもとまるで変わらない日常のひとつの風景である。その先に待っているものが血生臭い事件現場ということでさえ、何一つ変わらない。自分がすべきことはカンペキな捜査、このただ一つであることも、何もかもが体に染み付いた癖のようだった。
 冥はそれを誇りに思っていた。狩魔の人間としてこれがあるべき正しい姿である、ということなど疑う余地もなかった。この世界に生きる数多の普通の人間たちと違っていようとも、それは何の焦燥や不安も冥にもたらさない。狩魔はそういうニンゲンなのだと分かりきっていた。

「――ッ!」
「? 何かあったッスか?」
 規則正しいリズムを刻んで歩いていた冥が急に足を止めるのを見て、糸鋸刑事が不思議そうな声を出す。日常を掻き乱された、と冥は鞭を握る右手に力を込める。
 視界に入ってくる“見慣れた”赤い色。しかしこの空間において、その見慣れた後ろ姿こそ存在してはいけないものだった。強風にも動じず捜査官たちと言葉を交わすその姿が、妙に冥を苛立たせた。
(何故、ここにいるの……!)
 勢いよく踏み出した一歩が鋭い音を立てる。それが響き渡り、誰もが冥に視線を向けてきた。そして、まるで分かりきっていたとでも言いたげに周りからワンテンポ遅れて振り返った人物と、ばっちりと目が合った。



引き鉄



「何故あなたがここにいるのかしら、御剣怜侍!」
「出会ったそばから噛み付いてくるとは随分なご挨拶だな、メイ」
 今にも鞭を振るいだしそうな勢いで詰め寄ってくる冥に、御剣は苦笑して答える。だが、御剣のその態度すらも気に入らないようで、冥はますます不機嫌な顔になり、ついに鞭が飛んだ。悲しきかな、矛先は例に漏れず冥の後ろに立っていた糸鋸刑事だった。
「んぎゃあああッス! 痛いッス!」
「おだまり、ヒゲ!」
「うううう……」
 完全にとばっちりを受けた形になりしょげ返る糸鋸刑事を横目に、冥は目の前の御剣を睨みつけた。何をそんなに怒っているのだ、といったような要領を得ない表情を浮かべていることが余計に気に食わない。どうして、どうして、彼が自分の日常に入り込んできたというのだ――


 ここまで冥が苛立ちを隠さなかったのには理由があった。
 その背中は、御剣が狩魔家にやってきてから一度も追い越すことができなかった。現場に立っている彼の後ろ姿を見つけたその瞬間に、すべての感情が心の奥底からひっくり返されて、乱暴にばらばらとぶちまけられていくのを冥は感じていた。

 本物の天才の下に生まれた自分が何を期待されているかということは、幼い冥にもひしひしと伝わってきていた。そしてその期待に応えようと必死に父の背中を追いかけていた。しかし、悟られてはならなかった。天才の子は天才であって当たり前、努力など要せずに天才であることは必然である、と思わせなければならなかったのだ。それは息をすることと同等であると感じるほどに、冥にとっての生きる術だと思っていた。
 そんな冥の前に突然、御剣が現れた。冥とは違い、少年として成長した後から狩魔の名を背負い始めたにもかかわらず、彼はあっという間に父親の後継者と名乗るに相応しい実力をつけていった。冥はそんな御剣の姿を前に、努力など無駄だと言われたような気分を感じていた。敗北感、劣等感、焦燥感、すべての負の感情を抱え、立ちはだかった御剣の背中を見つめているしかなかったのである。
 だからこそ、御剣が成歩堂相手に連敗を重ねていると耳にした時に、これ以上のチャンスはないと思ったのだ。成歩堂に勝つことができれば、すなわち御剣にも勝ったと言うことができる。全身全霊を注いで法廷に立っていた時の記憶を今でも忘れることができないほどに、あの頃は勝つことが自分の全てだった。しかし、その手段を以てしても彼に勝利を収めることは叶わなかった。挙句の果てには、検事から逃げようとしていた自分に「歩くのをやめるというのなら、ここでお別れだ」とまで言い放ったのだ。

 何から何まで自分の先を行く御剣が憎い。あの時、同じスタートラインに立ったと彼は言ったが、その時点で既に先を歩かれているように感じてならなかった。そして何よりも、空港で問いかけられた言葉に対する答えが未だに見出せずにいることが、冥を更に苛立たせていた。
『その鞭が、何を打つべきか――』
 狭苦しい車の中で、何故だかぼんやりとその言葉を思い出していたのだ。カンペキな答えを見つけられていないだけでも腹立たしい。よりによってその原因となった御剣が、タイミング悪く自分が担当する事件の現場に立っている。何もかもが冥の癪に障った。
(あなたはまだ飽き足らずに、私の日常に足を踏み入れるというの?)


 そんなことは、許せるはずがなかった。
「質問に答えなさい、御剣怜侍。私は何故あなたがここにいるのか、と聞いているのよ!」
 冥の剣幕に御剣は若干たじろぐ。彼にしてみれば冥の苛立ちの原因など知る由もない上、言いがかりに思えても仕方のない話である。そんな御剣をよそに、冥はカリカリとした雰囲気を全身に纏い、次は誰が鞭の餌食になるのだろうかとその場の捜査官たちを怯えさせている。冥が有無を言わさぬ視線で答えを催促すると、御剣は観念したように溜息をついた。
「別件でたまたまこの現場近くを通りかかっただけだ。状況を把握したらすぐに立ち去るつもりでいたのだが」
 君がこの事件の担当だと聞いたしな、と御剣は付け加える。冥はその言葉を聞くと不満そうに顔を背けた。だが、次の瞬間には自信に満ちた表情で彼を見つめ返していた。
「……ああ、そういうことね」
「な、なんだろうか……」
 ひらり、と左手を御剣の前に差し出し、法廷で見せるような余裕たっぷりの笑みを浮かべる。一瞬にして翻った冥の態度に御剣は少々困惑したようで、ふと見ると眉間に皺を寄せていた。
「わざわざ私の担当する事件に遭遇するなんて、無意識のうちに私の優秀な仕事ぶりが気になっているようね。敵わないと思い知ったかしら?」
 何も言い返せまい、と余裕の態度を崩さずにいると、御剣は視線を冥から逸らしてぼそっと何かを呟いた。まさに聞こえるか聞こえないか、というレベルの音量だったが、冥は咄嗟に耳をそばだてて彼の言葉を拾った。
「……事件が私を呼んでいたのだろう」
「!」
 気に食わなかった。
 あっという間に冥の表情が厳しくなったかと思うと、再び後ろで糸鋸刑事の悲鳴が聞こえた。捜査官たちも恐れを隠せずに表情が強張り始める。一方御剣はそんな冥には慣れたもので、やれやれ、といったように呆れ返っている。
「冗談なのだが……」
「うるさいッ! 冗談を言っている顔に見えないのよ!」
 三度、糸鋸刑事の悲痛な叫び声が聞こえた。同時に、まるで自分が鞭打たれたかのように御剣が少し苦い表情を浮かべたのが冥にも分かった。冥の鞭の餌食になってきたのは御剣もまた同じで、糸鋸刑事の痛みをどこかで共有してしまったらしい。
 しかし、冥にとってはそんなことはどうでもよかった。自分の領域に足を踏み入れてきておきながら、冗談まで抜かしている御剣が本当に腹立たしかった。そもそも、以前の彼が冗談など言うことがあっただろうか。記憶を辿ってみても、そんなことは一度もなかった。何が、何が御剣を変えたというのだろう。狩魔の元で歩んできたのは、自分も彼も同じだというのに――

「随分と酷い言い様ではないか」
「フン……誰のせいかしらね?」
「一体何をそんなに苛ついているのだ、メイ」
 眉間の皺を一層深くして御剣が問いかけてくる。私の領域に踏み込んでくるあなたのせいではないか、と言いかけて、寸前のところで飲み込んだ。言ったところで再び馬鹿にされるだけなのは目に見えていた。
 そう、彼はきっと分かっている。冥が未だに一歩を踏み出せずにいること。踏み出せたとして、その足でどこに向かえばいいのか分からずにいること。そんな自分を嘲笑いに来たのだろうか。数秒の間に言い知れない感情が渦巻き、結局は何の言葉にもならずに終わってしまった。返事を待つ御剣に一言だけ、搾り出す。
「……何でもないわ」
「ならいいのだが」
 冥の葛藤にも気づいた様子はなく、御剣は相変わらず丸まってむせび泣く糸鋸刑事にちらりと視線を投げた。給与の面で刑事を苛め抜いている御剣も、さすがにこの状態を哀れに思ったらしかった。
「あまり苛めてやるな」
「あら、ヒゲがこんな状態になっているのは私のせいではなくってよ」
 しれっと言ってのけると、御剣は苦笑した。
 続けて聞こえてきた何の他意もない、変わらないな、という彼の呟きに、何故か胸が痛んだ。

 自分が動揺しているという予想外の出来事に驚きを隠せずにいる冥に気付いているのかいないのか、御剣は地面に置かれた鞄を持ち上げてそろそろここから去る、という意思表示をした。それまで御剣と話をしていた捜査官も彼に向かって敬礼をしている。
(そう……あなたはここにいるべきではない)
 鞭を握る手に自然と力がこもる。これ以上無駄なことで心を掻き乱されたくはないのだ。
「では、邪魔者は去るとしよう」
「邪魔と分かっていたのなら、もっと早く立ち去るべきだったわね」
 うむ、と御剣は少々困ったような顔をした。何を今更戸惑うことがあるのだろう、と冥は訝るが、彼の表情はすぐにいつもの涼しいものへと戻っていた。
「健闘を祈る」
「言われるまでもないわ。私を誰だと思っているの?」
「そうだったな」
 優しく、御剣が笑った。それを合図に、今しがた冥が歩いてきた道を戻っていく。遠ざかっていく御剣を背中に感じながら、冥はいつまでも伸びている糸鋸刑事を一喝した。いつもの光景だ、と現場の捜査官たちも苦笑する。少しずつ、冥の日常が戻り始めていた。

 しかし、詳しい話を聞こうと現場へ足を運ぼうとしたところで、メイ、という声が聞こえてきた。確認するまでもない、御剣が足を止めてこちらを見ているのだろう。嫌な予感を抱えて恐る恐る振り返ると、やはり彼の眼差しはまっすぐと冥を捉えていた。そしてその視線ですら冥の予想通りに、一番苦手とする雰囲気を帯びていたのだった。
 どうして、彼は何もかもを見通した目をするのだろう。
(嫌な、視線)
 冥が苦い表情をしていると、御剣は何がおかしいのか、ふっと笑いを零した。今日の彼は何もかもが気に食わない、と食って掛かろうとしたところで、御剣が口を開いた。
「答えは見つかっただろうか」
「……何のことかしら」
「君が持つその鞭の標的、だ」

 あれからどれほどの月日がたったのだろう。空港で別れて以来、互いに異国の地で自身のキャリアを積み上げていた。時期はずれていたものの、二人が日本に帰国したのが約半年前だった。それ以降、顔を合わせる機会などいくらでもあったのに、今更になってその話題を持ち出した御剣の本心が読めずに冥は顔を顰めた。
「……」
 言い返したくても言葉が出てこない。何も言えない。ここで何を言っても、どう繕っても御剣には全て見抜かれることを冥は痛いほど感じていた。
 本当は答えなど分かっている。日本を離れている間に、自分がいかに狭い視野しか持っていなかったかという現実を思い知らされた。しかし、それを求めることは狩魔を捨てることに等しかった。それに縋って生きてきた自分に、そんな真似ができるというのか。狩魔の人間としての自分と、狩魔冥としての自分――どちらかを求めれば、必ず一方は手放すことになってしまう。同じ自分であるはずなのに、二人は背中合わせだ。苦しかった。この人はそんな葛藤をいとも簡単に一蹴してみせる。何故だ。同じ道を歩いてきたはずなのに何故先に行ってしまうのか。冥は、もうその感情を抑える術など持ち合わせていなかった。
「あなたにっ、何が分かる――」
「メイ」
 遮った声色が、冥にもはっきりと分かるほど優しい。まるで妹に語りかけているかのようなそれに、少しばかり不機嫌さをあらわにする。しかし御剣は意に介すことなく、言葉を続けた。
「怖がるな。分かれ道の一方を選んだとして、引き返すことができないなど、誰が決めた?」

 振り返ってみれば、御剣はいつだって“狩魔冥”に手を差し伸べていた。怖いほどに、この男は優しいのだ。いつだって追い越したかったその背中。置いていかないでと叫びだしそうになる声。
「今の君ならば、できるはずだろう?」
「……随分と簡単に言ってくれるじゃない、レイジ」
 冥の言葉に、御剣は満足げな笑みを見せた。冥にとっては腹立たしいことこの上ない表情だが、鞭は飛ばさないでおいた。
「少々買い被りすぎただろうか」
 結局、いつだって自分の前を照らしてくれたのも彼だった。先を歩くということは道を切り開くということでもあり、何よりも辛い道程なのである。どれほどの葛藤を抱えたのか、傍で御剣を見てきた冥には簡単に想像できた。それなのに、御剣は立ち止まらずに歩くことを選んだ。それならば、今度は自分が歩き出す番ではないか。そのことが、彼がくれた弾丸だとしたら、それを撃つのは自分自身であり――
 姿勢を正して、冥は人差し指をびしっと御剣に突きつけた。
「見ていなさい、御剣怜侍。うかうかしていられるのも、今のうちよ」
「それは楽しみだな」
 待っている、という一言を残して、御剣は現場から離れていく。遠ざかる背中が見えなくなるまで、冥はその場を動かなかった。


 どさり、と音がする。
 それに驚いたのか、糸鋸刑事が素早く振り返った。彼の視線の先には、冥の手から放たれて地面に横たわる鞭があった。すうっ、と一つ大きく息を吸う。普段は決して見ることのない冥の姿に、糸鋸は隠すこともなく疑問符を浮かべた。
「狩魔検事、何やってるッスか?」
「引き鉄を引く練習、よ」
「?」

 もう、元には戻れない。だから何だというの、と冥は空中をキッと睨みつける。今まで逃げてきたのは自分なのだ。カンペキを当たり前とする狩魔の名を背負うものにあるまじきことである。何かを追いかけることで、もう一方の何かをみすみす逃がしてしまうなど、許せない。それならば、どちらも手に入れてみせる。
 彼から渡されたものは一発の弾丸に似ていた。狙いを定め、撃ち抜くまでの重みは計り知れない。しかし、銃口から出てしまえば、目にも止まらぬ速さで標的へと飛んでいく。それと同じように、きっと踏み出してしまえば、そこまではあっという間なのだろう。目を閉じて、ぼんやりと浮かんできた黒く美しい拳銃にゆっくりと指をかける様を思い描く。普段自分が握りしめているものとは違う、物々しい重みが何故かリアルに伝わってくる。
(……望むところよ)
 引き鉄を引ききった時、私はきっと笑顔を浮かべている、と冥は思う。弾丸の行く末を見つめて、そして歩き出すのだ。標的は、しっかりと向き合った二人の自分。

 ゆっくりと目蓋を上げると、相変わらず黒い雲が空を支配していた。しかし、冥はその先に青い空を見ていた。何のことはない、目の前を覆ってしまっているのはきっと一時的な事実であり、その奥にはいつも変わらないものがある。雲がかかろうが空が存在することに変わりはないのと同じなのだ。
 素直に生きることは難しい。特に自分に絡みついたしがらみはこの手で雁字搦めにしてきたものだ。容易に取り去れるものではないが、不可能と誰が決めたのか。

 短く息を吐き出して、冥は鞭を拾い上げた。それまでの一連の動作を黙って見つめていた刑事に、ぴしゃりと言い放つ。
「行くわよ、イトノコギリ刑事」
「はいッス!」

 それは誰のためでもない、目を逸らさずに自分を走り出させるための重い重い引き鉄TRIGGER――