「え、うそっ」
「嘘じゃないよ」
「え……えええええええええっ!」
(キーンときたぞ……)

 雪でも降り出すのではないかという寒空の下、屋外では強風が吹き荒れている。今年一年の慌しさを表しているのか、それともそれを振り払っているのか……はたまたもうすぐやってくる来年を暗示しているのか。
 しかし室内といえば呑気なもので、暖房を全開にして応接間に広げたお菓子を手当たり次第に食べながら年末編成のテレビをだらだらと見ている。このような状況を仕立て上げたのは、前日から近所のスーパーで大量のお菓子やら飲み物やらを両手いっぱいに抱えて買ってくるなど呆れるほど入念に準備をしていた他の誰でもない真宵なのだが、成歩堂も今日ばかりはそれを咎める気にもなれず、「ええい仕事納めだ!」と浮かれている真宵に便乗することにしたのだった。

 法律事務所に、年の瀬がやってきた。



お餅もちもちやきもち妬いた



「……ていうか真宵ちゃんさ、年末年始は里に帰らなくていいの?」
 書類を放り投げて応接間へとやってきた成歩堂は、小分けにされた煎餅の袋を開けながら思い出したように尋ねた。いくら人里離れたところにあるとはいえ、一人暮らしの真宵にとってはそこが実家なのだ。この一年の最後の日である今日、この事務所にいるということは帰る気はないという意思表示と取ってもおかしくなかった。
「ちょっと迷ったんだけどね、今年はパス」
「何で? よかったの?」
「なんか予報だとさ、里の方で年末年始に雪が降るらしいんだ。しかも大雪」
 そこまで言うと真宵はほうっと溜息をついた。
「寒いの苦手なんだよね、あたし」
「霊媒師がそんなこと言っていいのかよ」
「それを言われると耳が痛いなあ……確かに寒い上に雪とくれば、絶好の修行日和なんだよね」
「弁護士的には考えられない世界だな」
「霊媒師的にも異議あり、だよ……雪の日に修行なんて」

 そこまで言うと真宵はポテトチップスの袋をばさっと開き机の上に置いた。塩っぽい、そしてジャンクフード特有の匂いが広がり嫌でも食欲が刺激される。二人して手を伸ばしながらぱりぱりと音を立てて頬張る。真宵は律儀に指についた塩まで舐めながら続けた。
「まあ、それも理由といえば理由なんだけどさ」
「うん」
「みんなで過ごしたかったんだよね」
「ふうん……え?」
 テレビに意識を持っていかれかけてた成歩堂は、思いがけない言葉につまんでいたポテトチップスを取り落としてしまった。もうっ、大掃除したんだから汚さないでよ! と真宵に小言を言われ、ごめんごめんとへらっと笑いながら拾い上げる。
「どういうこと?」
「いやさ、年末はなんだかんだでみつるぎ検事も冥さんも……多分イトノコさんも忙しいと思うんだけど、年明けだったらみんなで集まれるかなーって」
「僕的には年明けからそのメンツは見たくないんだけど……」
 新しい年を迎えて気持ちも新たにすっきり! となっているところに、仕事上の敵たちに囲まれては新たになるものもならないし、すっきりどころかげんなりだぞ、と成歩堂は思う。ましてや彼らのことだ、普通の正月など過ごせるわけがない。成歩堂が思い描いていた寝正月が音を立てて崩れ去っていくようだった。

「うーん……うまく言えないんだけどね」
 そんな成歩堂を尻目に真宵は夢中でお菓子を口に運びながら必死に言葉を選んでいた。
(どっちかにすればいいのに……)
 そんな成歩堂の心の中を知ってか知らずか、真宵は手を止めて(口はもぐもぐと動かしたままだったが)うむむ、と考える。
「みんなと一緒にいるのが楽しいんだ、あたし」
 うん、そうだそれだ! と一人で納得して満足げに笑う。なんだよそれ、と苦笑する成歩堂を見て真宵は慌てて否定した。
「あ、別に倉院の里が楽しくないってわけじゃないんだけど。はみちゃんもいるしね。ただ……」
「ただ?」
「ある意味、綾里家にとって里以外の場所は別世界なんだよね。はみちゃんを見ればよく分かるとは思うけど」
「ああ……そうだな」
 あの子は少々特別ではあると思うが、確かに世間とはかけ離れた霊媒という能力を持った一族。そしてそれが「かけ離れた」ものではなく至極当たり前のものとして認識される里と、成歩堂たちが生活している街。相容れないとまでは言わないが、言葉どおり住む世界が違う、ということなのだろう。
「だから、あたしはこっちでみんなと話したり一緒にいたりすることで色んなことを吸収できるというか……里にいるだけじゃ分からないことがいっぱいあるんだ、って思い知らされる」
 いつになく真剣な面持ちで真宵はぽつりぽつりと言葉を選びながら話す。彼女なりに考えていることもあるってことか、と成歩堂は思う。
「真宵ちゃんは、それが楽しいって思うの?」
「うん、そういうことだね」
「へえ」

 珍しく、成歩堂は面食らっていた。隣に座るこんな妙な格好をして細い体つきの、少女と言ってもおかしくないような真宵が自分の置かれている状況を冷静に見ている、ということがにわかには信じられなかった。彼女なりに自分が家元であり、倉院の霊媒を、そして里を継がなければいけないということに重圧を感じているのであろうことが伝わってくる。
(まあ……そりゃそうだよな)
 まだ彼女は10代なのだ。こちらで生活している同い年の女の子たちは思い思いのファッションを楽しみ、好きなことを見つけ、将来へと繋げていく。しかし真宵は違う。生まれた時から決定づけられた行き先が見えている。それが喜ばしいことかどうか成歩堂には分からなかった。

「ま、そーいうことで!」
 ぽんっ、と胸の前で両手を合わせて真宵はにっこりと笑った。
「みんなのこと誘って新年会でも開こうよ! ね?」
「うーん……イトノコさんはともかくとして、御剣や狩魔検事は来てくれるのかな」
「だいじょーぶだって! 美味しいものでも準備すればみんな釣られて来るって」
「……自分の基準をあいつらに当てはめない方がいいと思うよ」
 成歩堂にはあの二人が食べ物に(しかも自分と真宵が準備できるレベルのものに)釣られてほいほいとやって来るようにはどう考えても思えなかった。が、真宵はそんな成歩堂の呟きなど聞こえていないようで、俄然やる気がみなぎってきたのか瞳をキラキラと輝かせて計画を練り始めている。
(やれやれ……)
 これは確実に付き合わされるな、と内心溜息をついてみるものの、元々は寝て過ごす予定だった正月。それはそれで勿体ないかもしれないと思い、この子の夢に付き合ってやるか、と腹を据えた。

「さ、そう決まったら準備しなきゃね。なるほどくん、お餅の材料は?」
「ああ、そうだな。材料……って、ちょ、ちょっと、待った!」
 成歩堂の慌てた顔と大声に真宵はぽかんと口を開けている。
「な、何、どうしたの?」
「それはこっちのセリフだよ! 何だよ、餅の材料って?」
「そりゃあ、新年を迎えるに当たって必要不可欠な餅だよ、も・ち!」
「……えーと、材料っていうことは既に切られた角切りの餅とかじゃなくて」
「なあに、それ? 餅といったらもち米から蒸かして杵でついて作る餅に決まってるじゃない!」
 さも当たり前、というかそれ以外の選択肢なんてどこにあるのだ、と言いたげな純粋な瞳がこちらに向けられる。真宵の頭の中で、里の人が総出で杵や臼を外に持ち出し、紅白の垂れ幕などを飾り、威勢のいい声と共に餅が力強くつかれている……そんな光景が繰り広げられていることが容易に想像できた。それだけで成歩堂は言葉に詰まる、が。
(い……いやいや! ここで僕が押し黙る理由なんかどこにもないぞ!)
「あー……あのさ、真宵ちゃん」
「ん?」
「悪いんだけど、ここ、倉院の里じゃないんだ」
「知ってるよそんなこと!」
 馬鹿にしないでよね、と真宵がぷんすか怒る。ここまでくるとその純粋さが恐ろしいな、と成歩堂は思う。
「……都会だと、正月に餅をつくっていう習慣があるところ、少ないんじゃないかな。多分杵と臼を持ってる家庭の方が少ないというか……」
「え、うそっ」
「嘘じゃないよ」
「え……えええええええええっ!」

 そして冒頭に戻る。
 結局、世間知らずなのは真宵も同じだったようで。



***



 今度は、大荷物を抱えて事務所に帰ってきたのは成歩堂の方だった。真宵はその隣で食料品の詰まったスーパー袋を片手に提げていた。
「……すごい出費なんだけど……」
「まあいいじゃない! 今年もそろそろ終わりなんだし」
「理由になってないよ……」

 里との違いを思い知らされ絶句した真宵は、だって……餅、お餅……と半ばうわ言のように呟き、挙句の果てには涙目になり成歩堂を慌てさせた。それが餅に対する執着なのか、それとも正月に皆が集まることへの執着なのかは分からなかった。しかし、余程年始を楽しみにしているのだということは痛いほど伝わってきた。
「……なあ、真宵ちゃん。本格的じゃなくてもいいんだよね?」
「……?」

 そんな真宵に根負けした結果がこの荷物、である。
「いやあ、〝はいてく〟ってすごいねえ。今や餅さえも機械で作れる時代!」
「はは……」

 二人が買って帰ってきたのは家庭用の餅つき機だった。駅前の家電量販店へ真宵を連れて行き、店員に餅つき機まで案内してもらうと、それまで何をしに連れ出されたのは理解していなかった真宵の目がぱっと輝いたのが分かった。店頭で「す、すごいよなるほどくん!」と叫ばれるのは恥ずかしくて隠れたくなったのだが、楽しそうに機械を眺める真宵を見ると、まあこれでもよかったか、と思えた。
「これでみんなとお餅が食べられるね!」
「ああ、そうだね」
 にこにこと成歩堂を振り返る真宵を見て、店員も笑っていた。こりゃ保護者に思われてるな、と思いつつも、一番手ごろなものを購入して店を後にし、途中でもち米やらの材料を買って今に至る。

「さ、早速もち米を蒸かさなきゃね!」
 下駄を脱ぐのもそこそこに、米の入った袋を抱えてぱたぱたと台所へと駆けていく。本当に楽しみなんだな、と苦笑いして走っていく真宵の後姿を眺めていると、ふと、頭の中で映像がフラッシュバックした。
「……あれ……、何だ、この感じ」
 もやもやとした気分の正体が見出せずにいると、応接間から真宵がひょいと顔を覗かせた。
「どうしたの? 玄関なんかに突っ立っちゃって。寒いところにいると風邪引いちゃうよ?」
「あ……ああ、今行くよ。何を手伝えばいいかな?」
 そうだなあ、とりあえずお米といでほしいな、という真宵の声を聞きながら靴を脱ぐ。脳裏には先ほどの真宵の後姿。
(……なんだっけ、この感じ)

「うう…すごい、すごいよなるほどくん……!」
 二人きりの応接間にぺちぺちぺち、という可愛らしい音と、機械のモーター音が響いている。その音の元を必死に見つめる真宵。
「も、餅ができあがってきてるよ!」
「いやあ、びっくりだな。意外とちゃんと出来上がるんだな、これ」
「技術の進化ってすごい! 科学万歳!」
「……喜ぶレベルが低いと思うよ、それ」
 真宵は待ちきれない、といった風に成歩堂を見つめてきた。まるで待てをされてる犬じゃないか、と苦笑する。しかし今の真宵には待ても何も通用しないだろうと思わせるほど爛々と期待に満ちた眼差しが向けられる。
「うん、もう大丈夫だよ」
「やったー! ささ、早く切り分けようよー」
「焦るなって」
「だってもち米を水に浸すだけで半日待ったんだよ? もう無理、待てないっ」
「はいはい」

 その言葉を待ってましたと言わんばかりに、真宵はつきあがった餅を手に取った。ね、ね、すごいよね! と出来たての餅を見せてくる真宵。
(あ……まただ)
 その笑顔が、誰かの笑顔と重なる。なんだっけ、これ……。

「あ」
「え?」
 唐突な呟きに真宵は目を丸くする。
「いや……ちょっと、思い出しちゃった」
「何を?」
「むかーしのこと、かな」
「……?」


 リュウちゃん、お正月といえばお餅ですよ。

 あら、おつきになったことありませんの?

 では、一緒に作りましょう。ふふ、リュウちゃんの初めてのお餅つきですわね。


 そうか、彼女か。
 そういえば彼女も笑って楽しそうにしていたな。まるで子供みたいだった。正月は人を童心に返すのか。それともたまたま餅が好きな二人だった? ……まさか。
 どちらにしろ、あまり思い出したくないことだったな。綺麗な思い出は綺麗なまま、奥底に眠っていてくれればそれでいいんだ。


 ・
 ・
 ・


「……ふうん、なるほどくんの昔の恋人かあ」
「結局話しちまった……!」
 歯切れの悪い返事に真宵が納得するはずもなく、法廷の証言台に立たされたような追及に屈し、成歩堂は大学時代の恋人──美柳ちなみのことを話してしまっていた。
「助手として法廷に立ってるんだし、これくらいできるんだから! 真宵ちゃんのテクニックを見くびってもらっちゃ困るね」
 ふっ、と御剣を真似たような気障な笑いを見せると、真宵は今度はにやりと笑う。妙なところを真似てくれるな、と成歩堂は呆れ返る。
「それでそれでー? その恋人さんは綺麗な人?」
「なっ……なんだよ。どうだっていいだろ、そんなこと」
「えー気になるじゃん! で、どうなの?」
「す……少なくとも真宵ちゃんよりは大人っぽくて落ち着いてたよ!」
「何それ、ひっどーい!」
 ふんっ、とそっぽを向くと手に持った餅を抱えて台所へと歩いていく。
「どーせあたしはお子ちゃまですよーだ」
 なるほどくんなんか餅つき機に入れられてお餅になっちゃえ! という悪態が台所から聞こえてくる。その悪口はどうなんだよ、と思いつつも口に出せば余計に機嫌を損ねそうなのは明らかだったので黙っておく。
「……って、なんであんなに怒ってるんだ……?」

 茶化していたかと思えば急にぷんすかと怒り出す真宵の行動にぽかん、としていると、包丁やまな板を棚から出しているがちゃがちゃという雑音に混ざって、さっきまでとは打って変わってトーンの落ちた声が聞こえてくる。
「でも、なんか悔しいなあ」
「何がさ?」
「お正月になるほどくんと餅つきするの、あたしが初めてだと思ってたよ。せっかく倉院仕込みの美味しいお餅をみんなで食べる、っていう楽しさを初体験させてあげようと思ってたんだけど」
 包丁を洗っているのだろうか。シンクに流れる水の音が二人の会話の邪魔をする。意図的なのか、無意識なのか。
「大勢で過ごすのは初めてだよ。その時は二人だったし……」
 言ってから、今のはフォローになっていないと気付く。……そもそも何故僕がフォローなんかする必要があるんだ、と頭を抱えたくなる。なんだかさっきから空気がおかしな方向に回り始めている、と成歩堂は真宵を見やった。応接間のソファからでは、餅を切り分けているらしく下を向いた真宵の表情を窺うことができない。手伝わなければ、と思っているのに腰が重い。

「……なるほどくん、その人のこと今でも好きなんでしょ」

「え」
 あまりの不意打ちに成歩堂は言葉を失う。やっと顔を上げた真宵は、彼の見間違いではなければ、どうしようもなく泣きそうな顔をしていたから。

 しかし、すぐにいつもの満面の笑顔を成歩堂に向ける。今のは錯覚だったのかと、ようやく立ち上がって真宵のいる台所へ足を運ぶ。
「だってだって、なるほどくんったら遠い目しちゃってさ。しかも今まで見たことないような優しい顔するんだもん!」
 どうよ、と胸を張って成歩堂を見る真宵に、先程の影は見当たらなかった。ほんの、ほんの少しだけ胸が痛む。どうしようもなく思い出してしまうあの過去の話。……そう、過去の話なのだ。

「いなくなっちゃったよ……もう、この世にはいない」
「え……? ちょっと、それって……」
「言葉通りさ。もう会えないんだよ」
「……」
 会える状況にあったとしてもきっと僕は会いに行かない……いや、会いに行けない、と呟いたが声にはならなかった。

「……ごめん」
「真宵ちゃんが謝る必要ないだろ」
「でも……ごめんなさい」
「だから気にしてないってば。ほら、早く切らないと餅が固くなってきちゃうよ」
 真宵の持っていた包丁を預かり、代わりに切り始める。互いに顔が見れないまま成歩堂は餅を見つめ、真宵は床を見つめる。包丁がたてるとん、とん、という規則正しい音だけが響く。
「それに正月の餅作りは初めてじゃないけど、僕はこうやって真宵ちゃんと餅作ったりだらだらお菓子食べたりするの、好きだよ(……気を使わなくていいし)」
「……うん、ありがとう。何だか自分でもよく分からなくなっちゃった。変だね」
 えへへ、と隣で真宵が笑ったのが雰囲気で分かった。
「さっきは怒ってごめん。うまく言えないけど……なんかもやっとしちゃった。ダメだなー、あたし」
「うん、いいよ別に。そういう時もあるだろ?」
 ごめん、ともう一度呟く。しゅんとした真宵は一回り小さくなってしまったようで、本当の子供のようで。掴めない感情に折り合いがつけられないのか、曖昧に笑ったまま再びありがとう、と成歩堂に向かって言葉を投げかけた。成歩堂もなんと言って返したらいいのか分からず、同じように笑って見せた。その時の二人は、表情だけ鏡に映したようだった。

「ほら、みんなに電話しておいでよ。僕が誘うより真宵ちゃんが声を掛けた方が来てくれるよ、きっと」
「……うん! 任せといてよね!」
 そう言って台所から出て行き真宵は携帯電話を片手に楽しそうに笑った。いつも以上のその笑顔を見るだけで、楽しみにしているのだということがよく分かる。そこまでこだわるのは、誰かと過ごす、という点で寂しい思いをしてきたのだろうと容易に想像ができた。

 大勢の人々と過ごすことに喜びを感じ、自分のすべきことをはっきりと悟っている、言動とは裏腹に繊細な彼女。
 しかし、自分の気持ちには靄がかかり、掴めない。〝気持ち〟は自分の所有物なのにはっきりと見ることができない。
 傍から見ている僕には、分かりかけているというのに。

 早くその気持ちの正体に気付いてくれるといいんだけど、と思い、明日の来訪者が決まったことを伝える真宵のガッツポーズに、成歩堂は心の底から笑って応えてみせた。