今日の彼女はどこか不機嫌だ。
 ぶつぶつと「ずるいなあ」だとか「私も見たかった」だとか言っている。僕には何のことだかさっぱり分からずに首を捻る。

 午前中はいつものように(うるさいくらい)元気で、仕事で出かけている間に事務所の掃除やらゴミ捨てやらの僕がやらずに溜めてしまっている雑用を片付けてくれた。僕が事務所に帰ってきて数十分後──お昼を過ぎた頃に、誰からのものかは知らないが真宵ちゃんの携帯にかかってきた一本の電話が彼女に衝撃を与えたようだった。その電話の内容を初めこそ楽しそうに聞いて相槌など打っていたのだが、急に「う、嘘っ!」と叫んで以来ずっとこの調子だ。
 そんなことを考えていると、今度は溜息なんかついている。……こりゃ重症だ。

 そうやって自分のデスクからぼんやり真宵ちゃんを眺めていたら、僕に足を向けてソファにうつ伏せになりながら肘掛に頭だけ乗せていた彼女がゆっくりとこちらへ顔を向け始め、あ、と思う暇もなくばっちりと視線が合ってしまった。



Over the rainbow



「なるほどくんも、見たんでしょ」
 そう言った声が明らかに不機嫌だった。一体何が不満なんだ。そもそもその台詞の意味すら僕には分からない。見た、って一体何を?
 そんな僕の頭の中の嵐に気付く様子もなく、真宵ちゃんは相変わらず不満げに唇を尖らせて文句を垂れている。
「どーせあたしは運がなくて薄幸な女ですよーだ」
 言いながら、僕の返事など待たずにぼふっと音を立てて再びソファの肘掛に頭を乗せる。話がどんどんと卑屈な方へ転がっていくな……このままではまずい。いや、彼女の機嫌が悪いのはどうでもいいとして、この状態で放っておくと被害を受けるのは確実に僕だ。八つ当たりとか夕飯奢らされるとかケーキ買わされるとか……。次々とあまりよろしくない行く末が頭に浮かんできて、まだ実現していないとはいえ十分に考えられる状況であり、少し辟易してしまった。勘弁してくれよ。こっちは暑い中スーツ姿で歩き回ってきて疲れているのだ。

「あー、今あたしのこと頭の中で馬鹿にしたでしょ!」
 やはり足を僕に向けたまま、今度はその足をバタバタと暴れされる。その動きに合わせて後ろで束ねられた真宵ちゃんの長い黒髪も背中の上で一緒に揺れた。
(そんなことすると見えちまうぞ……じゃなくて、まるで大きな子供みたいだな)

 そんなことを考えていると、急に今までとは打って変わって悲しそうな声を出す。今日は感情の波が激しいな、この子。
「もう、絶対見てないのあたしだけだよ」
「だから、何をだよ?」
 まったく状況が理解できていない僕にとっては至極当然の質問をぶつけただけだったのだが、それを聞いた真宵ちゃんは勢いよく振り返って目を丸くした。まるで、仲間を見つけた! と言わんばかりに。
「もしかして、なるほどくんも見てないの?」
「え?」
 急激に元気を取り戻したのか、声色がさっきまでとはまったく違う。分かりやすいなあ、苦笑していると、真宵ちゃんは普段僕が法廷でやっているように勢いよく窓の外を指差して大声で言った。

「虹だよ。に、じ!」

 その単語が、僕の頭の中の隅できらっと光った。そういえば。
「あ」
 言われて、駅から事務所へ帰ってくる途中に見たあの七色の橋を鮮明に思い出す。
「あああ、そうそう! 忘れてた、帰ったら真宵ちゃんに真っ先に教えてあげようと思ってたんだったよ。都会とは思えないくらいすっごく綺麗な虹が出ててさ。きっとどっかで雨が降ってたんだね……ってあれ?」
 一応嬉しい報告をしたつもりだったのだけれど、真宵ちゃんにとってはそうではなかったらしい。さっき一瞬見せた喜んだ顔は何だったんだ、と言いたくなるほどしょげ返り、挙句涙目にまでなっている。つい数秒前まで元気よく空に突きつけていた人差し指は、まるで今の真宵ちゃんをそのまま映しているかのように力なく下を向き事務所の床に向けられていた。
「ちょ、ちょっと……いい、異議あり! 何で泣くんだよ!」
「だ、だって……」
 情けないと思いつつ、女の子に泣かれるのは弱い。思わず慌てふためいてしまう。ぐすっと鼻をすすって、真宵ちゃんは口を開いた。
「あたし、生まれてから一度も虹を見たことがないんだ」

 あったのかもしれないけど、よく覚えてないの。お母さんがいなくなっちゃったり、お姉ちゃんが里から出て行っちゃったり、それで修行に追われたり、これでも結構忙しい身なんだ。だから、ちょっと記憶が曖昧なんだと思う。

「さっきあたしの携帯に電話がかかってきてたでしょ? あれ、マコちゃんからだったんだけど、最初はイトノコ刑事とのこととかを話してたんだけど、途中で急に思い出したように『そういえば真宵ちゃん、あれ見たッスか?』って言い出したの」
 初めは何のことだか分からなくてさあ、と笑う。
「なあに? って聞き返したら、すっごい興奮した声で『虹ッス! しかもものすごく綺麗な!』って返ってきて。あんまり嬉しそうだったからさ、やっぱり本物の虹は綺麗なんだろうなって思って。あたしも見てみたかったなあ。その時間は事務所で掃除してたんだけどな……ぜんぜん気付かなかったよ」
 あー残念! と言って、真宵ちゃんはソファに今度は仰向けに勢いよく寝転がった。くそーなるほどくんまで見てたとは、などと悔しがって、先ほどの涙などなかったことのようになっていた。たかが虹くらいで泣かなくても、とは思ったものの、自分はどうだっただろうかと考えてみる。街行く人たちが皆同じ方向を見上げてなにやら嬉しそうに話している。何事かと彼らに倣って顔を上げると、ビルが立ち並ぶ隙間から見えた空に美しいアーチが架かっているのが分かった時、僕は何を思ったか。

 柄にもなく喜んだ。すごいや、と小さく口に出してしまった。
 教えてあげたいな、と思った。

「でもま、滅多に見れないから綺麗なんだろうね」
 ソファでごろごろしている彼女はそんなことを、呟いていた。


「真宵ちゃん、打ち水しに行こうよ」
「え? なーに?」
 ぼんやりしている彼女に声をかけると、唐突の出来事だったのか少し驚いてこっちを振り返った。
「外、暑いだろ? だから事務所の前の道路にホースで水を撒いて、ちょっとでも冷やそうよ」
 そう言って窓の外を見ると、夏らしく太陽が燦燦と輝きアスファルトで覆われた地面を照らしつけていた。ましてや時間は午後二時過ぎ、一番気温が上昇している頃である。
「あ、それ賛成!」
「確かホースにつける散水ノズルがあったはずだから、出しておいてくれない?」
「はーい」
 元気よく返事をしてソファから飛び降りると、真宵ちゃんは物置部屋へと駆けていった。その背中を見て、うーんと背伸びをする。
(ほんとは……)
 こんな真っ昼間に打ち水などしない。寧ろ、太陽がせっせと働いているこんな昼間に水を撒くのは自殺行為といえる。一瞬の効果はあるもののその後蒸発した水蒸気によって余計に蒸し暑くなる可能性だって大いにあるのだ。ご近所さんにはちょっと迷惑なことだけど、でも──
「今日は……まさに”いい”天気だな」
 空からは相変わらず強い日差しが降り注いでいた。



***



「なるほどくん、見つけてきたよ!」
「お、サンキュ。助かるよ」
 僕が先に外へ出てホースやら何やらをごそごそと出していると、上から真宵ちゃんが発掘したばかりであろう散水用のノズルを片手にばたばたと降りてきた。僕はその手からノズルを受け取り、ホースの先端へと取り付ける。
「……っと、これでいいかな。真宵ちゃん、そこの水道の蛇口開けてくれない?」
「りょーかい」
 びしっと敬礼をしてにこっと笑うと、勢いよく蛇口を捻った。ホースの中を水が流れてくるのを感じる。そして数秒後──
「うわあ、出た出た!」
「そりゃあ、蛇口に繋いでるしね」
 まるでホースから出てくる水を初めて見た子供のように、目をキラキラとさせて眺める彼女に苦笑する。サアアッという澄んだ音とともにアスファルトの色が濃くなっていき、跳ね返った水飛沫がシャツに少しかかって冷たくなる。この気温だとこれでちょうどいいくらいだ。

「ね、なるほどくん。これってどのくらいの時間……うわ、ちょっとなにすんの!」
 頃合を見計らって散水ノズルのダイヤルを「ストレート」から「シャワー」に変えて、僕に背を向けていた真宵ちゃんの背中にかけてにやりと笑ってみせる。案の定彼女は驚いて振り返り、頬を膨らませている。
「ははっ、気持ちいいだろ?」
「そりゃそうだけど、いきなりはないでしょ」
「さ、こっち。僕の隣に来てごらん」
「え?」
「いいから」
 空いた手で真宵ちゃんの装束の袖を引っ張って、自分の隣に立たせる。背中にじりじりと強い日差しが当たっているのがよく分かる。
「ほら、見て」
「見てって、何を?」
 いきなり引っ張られて困惑する真宵ちゃんに、ホースの先からシャワー状に噴き出している水を指差す。真宵ちゃんはその僕の指先を視線で辿るが、どこか釈然としない顔をしている。
「……水だよ、なるほどくん」
「もっとよく見てってば」
「もっとって言ったって……あれ」
 疑わしい色を帯びていた瞳がみるみる丸くなり、そして輝きだすのにそう時間はかからなかった。

「な、な、なるほどくん! に……虹だよ、虹!」
「よく晴れた日に太陽を背にして、目線の高さより上に水を霧状に撒くと、虹が見えるんだよ」
 僕は種明かしをする。今日は、そうやって虹を作るのには絶好の晴れだった。
「……ま、すっごく小さいけどね」
 少し恥ずかしくなって頭を掻くと、僕の隣で真宵ちゃんがふるふると首を横に振った。
「これ……すごいね。本物の虹!」
 本気で感動している。何だかこんなちゃちなもので申し訳ないな、と思いつつ、喜んでくれたのだからそれはそれでいいか、とも思う。第一、こんなことをした目的は真宵ちゃんに笑ってもらうためだったのだから、とりあえず目的は達成できた。
 ふと横を見ると、真宵ちゃんが満面の笑みで僕を見ていた。だから、僕もそれに応えて笑ってみた。

「ねえねえ、今度はさ、もーっとおっきな虹作ってね」
「え、無理だよ」
「えー……ケチ!」
(その反論は間違ってるぞ)
 元気を取り戻したと思ったらすぐこれか、と苦笑いを零す。そんな僕を尻目に、できれば、と真宵ちゃんが付け加える。
「虹の根元がどこかの街にできちゃうくらいの、おっきなやつね!」
 そもそも虹の根元なんかあるのか? と言いかけて、やめた。そんなロマンのないこと、今くらいは言うのをやめておこう。それに僕が作らなくたって、空に架かった虹を見つけたら、僕が根元まで──

 いつか連れて行ってあげる

 ……そんなこと言えるはずもなく。
 寧ろそんなことを考えて、しかも一瞬でも言おうとした自分が無性に恥ずかしくなって、一人で勝手に赤面してしまった。僕は何を考えているんだ!
「うわ、なるほどくん顔真っ赤。そんなに暑い?」
「……ある意味、ね(なんだか死にたくなってきたぞ)」

「……あたし、薄幸なんかじゃなくて、実は相当な幸せ者なのかも」
「何か言った?」
「ううん、なんも言ってない!」
 今度はあたしがやるー! とじゃれついてきて、僕の手からホースを奪った。その間にもどんどんとアスファルトや僕のシャツ、彼女の装束の裾を濡らしていく。風が吹くと水のおかげでひんやりと心地がいい。
「いくよー!」
 気合の入ったその掛け声とともに、大量の水が僕にぶちまけられたのはすぐ後の話だった。
「うわ、何すんだよ!」
「さっきのお返し!」

 結局、いい年した男と変な格好のお団子頭の女の子がホースと一緒にじゃれあっている奇妙な光景は、夕方ごろまで続いたのだった。