電話が鳴る。

 みぬきは学校、王泥喜は仕事。事務所には一人しかおらず、必然的に成歩堂が対応しなければならなくなった。
(仕事の依頼だといいんだけど)
 そんなことをぼんやりと思いながら読んでいた本を机に伏せ、ま……働くのはオドロキくんだけどね、などと呟いてソファから立ち上がり受話器を手に取った。

「はい、成歩堂なんでも事務所です」
 彼は、受話器の向こうから「あ、すみません……弁護の依頼をお願いしたいんですけど」とか、そのような言葉が聞こえてくることを期待していた。
「ああ、いいですよ。うちはどんな依頼だって大歓迎です。だって〝なんでも事務所〟ですからね」
 そんな回答だって用意してあった。相手の言葉を聞く前からその言葉を口に出してしまおうかとしていた唇が、固まった。

『──なるほど、くん?』

 季節は、春。
 窓の外では薄桃色の花びらが道の木々を彩っている。街を覆う空気もすっかり暖かくなり、誰も彼もが春の装いで歩いていく。風が吹くと花弁がはらはらと舞い散り、外の景色を鮮やかに染め上げる。近くの公園に花見に向かうのか、賑やかな笑い声を振りまきながら通り過ぎる若い男女のグループや、にこやかに木々を見上げ花を愛でる親子連れが、2階からの窓越しに目に映った。
 ああ……春だなあ。

 思考が目の前、いや正確には耳の前で起こっている現実から逃げるように、一人の空間から外の世界に意識が向けられる。普段は季節の移ろいなんか気にしないくせに、と自虐的な言葉が頭を回る。
 そうしなければいられないほど、手に握り締めた機械の奥の奥から聞いてはいけない声が響いていた。



春の君は美しい



『……綺麗な青空は午前中までで、午後から強い雨が降るでしょう……』
 消し忘れていたテレビから天気予報を読むアナウンサーの声が聞こえてくる。確かにまだ空は明るいが、西の方に嫌な黒い雲が見えた。
『あの、なるほどく……』
「何で電話なんかしてきたんだい?」
 電話越しの人物の言葉を遮り、極めて冷静に……先ほどの動揺を悟られないように、声から抑揚を消して告げた。

 何故今更、と。

『……そうだよね、ごめん。いきなり電話なんかして。驚いたよね?』
「そりゃまあ……ね」
 実質、ほぼ七年振りに聞く声だった。それまでは毎日隣にいて、毎日聞いていたはずの声。自分の知っている声よりも微かに大人びたそれを耳にして、成歩堂は時が流れたことを感じた。
『新聞で、見たんだ。なるほどくんの事件』
「……ああ」
 正確に言えば成歩堂の事件ではない。成歩堂が関わった事件。
 遠い遠い、だけどついこの間。小さくて丸い、キラキラと金色の光を放って誇らしげに光るあのバッジを失くした出来事と、それに関連する事件の数々。
 娘や王泥喜にも黙って着々と準備を進めていたシミュレート裁判により、自分の疑いは晴れたも同然だった。

『……終わった、んだね』
 そう、すべて終わったのだ。
 成歩堂は真宵のほっとしたような、嬉しそうな小さな呟きを聞き、今まで自分の身に降りかかったすべてのことを吐き出してしまいそうになった刹那。

 〝あの日〟のことが、強烈にフラッシュバックする。

 そうだった。僕には、この子に笑いかけられることは許されないんだった。
「君には、関係のない話だよ」
 次の瞬間には言葉が飛び出していた。いっそ、あの時みたいに泣いてくれればいいのに。
『……また、そうやって言うんだ』
 成歩堂の期待とは裏腹に、電話の向こうで彼女が小さく笑った。
『あの日からびっくりするほど変わってないなあ、なるほどくんは』
「真宵ちゃ……」
 その名前を口に出して、成歩堂はたじろいだ。久しぶりに自分から口を突いて出たその言葉は、むせ返るほどの懐かしさを纏って降りかかる。

 何故今更──
 また僕の前に現れてしまったんだ。余計な感情を排除してきたはずなのに、これまでの彼女に対する虚構の蓄積が一気に流されてしまいそうな気がして成歩堂は知らず足を踏ん張った。
 僕のことなんか忘れてくれれば、よかったのに。
『おめでとう、なるほどくん』

 あたし、信じてたよ

『やっぱりさ、なるほどくんに証拠品の捏造なんて大それたことはできないよね! そんな度胸あるわけないし』
「……そりゃどうも」
 あの頃と変わらない軽口が受話器の向こうから流れるように耳に入ってきて、内心どきりとした。ここまできて変わっていないなんて、まさかな。
『あの時ね』
 不意に遠くを見つめるような声色で真宵がぽつりと呟いた。
『強烈に感じたんだ。なるほどくんは一人で抱え込もうとしてるって。あたしにはどうすることもできないんだなあ、って思ったらちょっと悲しくなっちゃってさ』
「そういえば、そんなこともあったかな」
『もう! そーやってすぐ誤魔化すんだから!』
 両手を握り締めてぷんすか怒っている様子が目に浮かぶようだった。まったく……本当に変わっていないみたいだな、君は。
『……でも。なるほどくんだって頑張ってるんだから、って思ったらめそめそなんかしてられなくなっちゃった。私も負けないくらい頑張ろうって決めたんだ。こんな真宵ちゃんでも家元だしね』
 ふふっ、と笑う空気が感じられる。ああ、くすぐったいなもう。
『迷惑かけたくなかったし、なるほどくんが抱えてることが全部解決するまでは絶対に連絡もしない、会わない。そう決めたの。その代わり、すべてが終わったその時は、めいっぱい褒めてあげるつもりでいたんだ』
 だから、今日はその電話なんだよ。

 変わらない、という前言を撤回しようと思う。
 彼女は、僕が意固地になって守ろうとしていたあの頃より、遥かに大人になっていた。そう、それは僕の想像していたスピードを大きく超えて。そう考えると、とたんに意地を張っていた自分が情けなくなってきた。



 よく、頑張ったね



 そんな言葉が遠くで聞こえた気がした。一番聞きたかったフレーズだったのかもしれない、とぼんやりと頭の隅で考えていた。



***



 ガチャン、と受話器をあるべき場所に置き、成歩堂は元のソファに座るでもなく、その場に立ち尽くした。
 春美ちゃんは元気かい? だとか、ちゃんと味噌ラーメン以外も食べて健康的に過ごしてるの? だとか、他愛ない会話をして久しぶりの連絡は終わりを迎えた。それらの問いには全部安心するような答えばかりが返ってきて、少しだけほっとする。彼女たちは、ちゃんと楽しく暮らせているのだと分かったから。

 だけど。
 頑張ったね、と伝えられた時、彼女は泣いていた。
 声が震えていた。健気にもそれを隠そうと、姿は見えなくともまるで目の前でそうしているかのように、浮かんでくる満面の笑顔。彼女がそんな表情をしているのが、手に取るように分かった。
「──っ」

(僕は、馬鹿だ)
 あの頃の自分は離れることを望んだ。それは彼女のためだった。……そう信じていた。
 この先どうなるかなんて分からない、これ以上迷惑なんかかけられない。だったら、自分からこの手を離せばいい。そうすれば彼女は好きなように自分の道を選べる。僕に縛り付けられることもないんだ。それが、彼女に対して僕が唯一できること。

 ……真宵ちゃんのため? 本当は、自分のためだったくせに。

 愛想を尽かされると思った。情けないと罵られると思った。きっと、泣き喚いて僕を責める……どうして自分ばかり犠牲にするのだ、と。
 痛いところを突かれるのは分かりきっていた。だから、そうなる前に遠ざければいい。そうすれば傷つかなくて済む。……彼女も、そして何より、自分も。

 彼女はあの日も泣いていた。
 里に帰っていた彼女は、どこから話を聞きつけたのかバタバタと騒がしい足音をさせて、乱暴に事務所のドアを開け放った。それまでソファに呆然と座っているだけだった成歩堂はその騒音にやっと振り返る。
 忙しい中でどうやってここまで来たんだい? という成歩堂の問い掛けがまるで耳に入っていないかのように、真宵は入り口に立ち尽くして肩で大きく息をしていた。
「……ねえ、何があったの?」
 どうして、なんで……力なく項垂れて疑問符を繰り返す真宵に向かって、成歩堂は考えられる限りの冷たい声を放った。
「これが、事実なんだよ。現実なんだ」
 その声色に驚いたのか、目に涙を溢れんばかりに溜めながら大きく見開いて成歩堂を見つめた。
「そんなの、信じられるわけないじゃん! ねえ、なにかできることないの? 今からでも遅くないよ! 一緒に……」

 一緒に?

 その言葉を聞いて成歩堂は眉を顰めた。この期に及んで、この子はまだ僕と一緒に戦おうというのか。こんなに不利な状況だというのに、味方はいないというのに、自己犠牲にも程がある。このままではどうなったって彼女は自分にどこまでもついてくる。
 それは避けなければならない、とどこかでなにかが叫んでいる。きっと、巻き込んでいい話ではないのだ。
 何より彼女は、倉院流霊媒の正当な後継者であり、家元になるべき人物だ。足元をすくわれて惨めに転んでしまった元弁護士に、付き合わせるわけには、いかない。

 そして、小さく息を吸い込んで告げる。
「……一緒に、君に何ができるっていうんだい?」
「なるほど……くん?」
「もう君には関係ない話だ。君がいてどうにかできる問題じゃない」
 その言葉にひどく衝撃を受けたのか、一瞬顔を大きく歪めた。
「そんな! そんなことな──」
「君に知識はない。そんな状態で、戦力にはならないよ。今の僕には役に立たないんだ」
 真宵の言葉を遮り伝える言葉。本心だろうが、本心じゃなかろうが、それはもうどうでもいい。
 これは僕の戦いだ。僕一人で真実を、この日の光が当たる場所へと引きずり出す。

 決めた。
 この手を、離す。



***



(結局)

 あの時の彼女のひどく傷ついた顔。大粒の涙。ごめんと力なく繰り返す声。部屋を出て行くときの小さな背中。
(忘れたと思っていたんだけど)
 自分でも笑えてくるほど、すべてをはっきりと記憶していた。忘れようとすればするほど深く刻まれていったそれら……きっと、僕らはそれまで近くにいすぎたのだ。それを無理に引っぺがそうとしたから、歪んでしまった。傷んでしまった。
「参ったな……僕、何をしたいんだっけ」
 遠ざけて遠ざけて、自分から手を振り払っておいて。
 胸の奥底に浮かび始めた気持ちに、気付いてしまうなんて。……馬鹿げてるよなあ、本当。

 成歩堂は再び受話器を取り、もう二度と押すことのないと思っていた番号を頭に浮かべて、ボタンに指を滑らせた。
「……笑っちゃうよな」
 携帯電話からメモリーを消して、自分の携帯の番号を変えて、様々な連絡手段を断っても、こうやって覚えているのだから。
 言うべきことは、ただ一つだけ。

「……もしもし、真宵ちゃん?」
『え、え? なるほどくん? どうしたの?』
「今日午後五時、駅前で待ってて」
『え? 駅って……』
「そう、事務所の最寄り駅、だよ」

 驚いて何も言えない真宵に一方的に言葉をぶつけて乱暴に受話器を置いた。
 そういえば返事を聞いてない……まあいいや。彼女だって忙しい身分、来てくれなくたっていいんだ。また自己満足かと言われようが、これが、多分僕の気持ち、なんだろう。どう考えても我侭すぎるけれど。

 これで、いいんだよな。僕は、もう一度戻りたいと願っていいんだよな。

 ……もう一回、その手を握りたいと言って、いいんだよ、な。

『……お出かけの際は傘を忘れないようにしてくださいね』
 テレビの中からアナウンサーが笑顔を浮かべて視聴者に語りかけていた。


 きっと、春のせいだ。

 僕らしくもない、街の人々の浮かれた気持ちが伝染してしまったようだ。そうでなければ、こんな気を起こす事だってなかっただろう。


 待ち合わせの時間に合わせて出かける時、ちょうど学校から帰ってきたみぬきと、事務所前で鉢合わせたという王泥喜の二人と玄関先で出くわした。
「お出掛けですか?」
「ああ……ちょっと、人と会う約束があってね」
「えー! 珍しいね、パパがそんな約束するなんて」
「みぬきちゃんって時々失礼だよね、父親に向かって」
「はっはっは。まあ、いつものことだよ。悲しいことにね」
「大変ですね、パパ稼業も」
 苦笑いする王泥喜を不思議そうに見つめてから、みぬきは満面の笑顔を浮かべた。
「あ、もしかして!」
「?」
「今から会いに行く人って、みぬきの将来のママ、とか?」
「……」
「黙らないでくださいよ、成歩堂さん」
「ま、とりあえず出掛けてくるよ。留守番頼んだよ。……夕飯はいらない、かな」
「うん、分かった! いってらっしゃい。ちゃんと捕まえてきてね、みぬきのママ!」
 背後で王泥喜が、ああもう分かったから夕飯の準備でもしてようよ、とはしゃぐみぬきを抑えようとしているのが伝わってきた。まったく……娘のあの能力も困ったもんだよなあ。

 何から話そう。
 僕に娘がいること。娘がママを欲しがっていること。弟子みたいな新人弁護士くんが事務所にいること。もう一度司法試験を受けようと思って勉強を始めていること。

 何から聞こう。
 倉院の里はどんな感じ? ちょっとは栄えたの? 春美ちゃんに彼氏はできた? 家元の仕事はどんなものがあるんだい? 美味しいラーメン屋は見つかった?

 ぼんやり考えながら歩いていたら、予報通り空から雨が一粒、二粒、と地面を濡らし始め、あっという間にアスファルトの色を濃くしていく。一人、また一人と傘を広げて歩いていく人々を横目に、成歩堂も自身の傘を広げ、足早に駅へと向かう。思っていたより強い雨だった。
 駅に着いたときにはズボンの裾が変色するほどびしょ濡れになっていた。
 最寄り駅はさほど大きな駅ではないとはいえ、駅前は人待ち顔の老若男女でごった返していた。雨宿りをしているような人々も多い。
(ちっちゃいからな、あの子)
 少しだけ辺りを見回して、見慣れている傘の色を捜す。あの頃と変わっていなければ、の話だけれど。そもそも、今日来てくれるなんて答え、一言も聞いてないんだよな……と思い当たって思わず苦笑した。浮かれているのか、なんなのか。

──なるほどくん!

 でも結局、来てしまうのが君なんだよな。
 視界の端に七年前まで何度も見ていた薄紫色の傘を捉え、そちらに向き直る。

 ああやっぱり。
 春というのは人を惑わせるらしい。


 君は、美しい。
 まるで凛と咲く桜のよう。

 さて、何から話そう。何から聞こうか。